二〇〇四年 長月 十三日 月曜日■ 折り鶴を鶴に見立てるということ [/origami]この記事は書かれてから1年以上経過しています。内容が古くなっている可能性があります。コメントの受付は終了しました。 折り鶴は鶴に似ていない。折り鶴の後ろにある、上にとんがった部分は、足にしては上を向いているし、尻尾にしては細長すぎる。折り鶴を知らない人が、あの折り紙を見せられて、それが鶴を表しているといい当てることは、ほとんどないだろう。仮に首の長い鳥であると思ったとしても、首の長い鳥は鶴に限るわけではない。折り鷺でもよいし、折り鵜でもよかったはずだ。 折り鶴と鶴のあいだの結びつきは、社会的に決まっている。たまたまこの地球上では、この折り紙は鶴を表しているけれど、別の星では、同じ折り紙を折り鷺と呼んでいるかもしれない。折り鶴は鶴とは別のものであり、鶴とは独立に存在しているから、鶴を表す必然性はないのだ。 しかし、折り鶴は鶴に似ていないがゆえに、鶴に見立てることができる。なぜなら、AでないものをAだということが見立てであるからである。庭に置いた石を島だといい、銀杏の葉を金色の小さき鳥だというのが見立てなのである。鶴に似せようと意図してつくった鶴の模型を鶴だというのは、見立てではない。 あなたが犬の折り紙を創作したとする。それを人に見せて、「何に見える?」と聞いたら、「豚。」といわれたとする。そこで、もしあなたがそれを不満に思って、外見を犬に近づけようと努力するならば、おそらく、あなたはそれを犬に見立てようとはしていないのだろう。あなたがそれを犬に見立てたければ、「これは犬なのだ」といい張ればよいのである。つまり、その作品に「犬」という題名をつけてしまえばよい。美学者の佐々木健一がいうように、芸術作品の題名とは、「これをかくかくしかじかとして見よ」という命令なのだから。 もちろん、芸術の場合には、その見立てがおもしろいかどうかが問われることになる。見立てられる前の作品そのものがおもしろいかどうかが問われることは当然として。折り鶴を犬に見立てるのは、どう考えてもいい見立てではない。論理的には可能だが、倫理的にはやめた方がいい。 一方で、折り鶴を鶴に見立てるのはおもしろいのだから、折り鶴の外見をさらに鶴に近づけようとするのは、野暮である。それは、庭石の外見を島に近づけようとして、草を植えたり人形を置いたりすることに等しい。枯れ山水の庭でそんなことをしたら、すべてがぶち壊しになる。 あるものを何かに見立てるときは、その外見が見立ての対象とそっくりではおもしろくない。一方で、まったく関連がないというのもおもしろくない。「いわれるまでは気がつかなかったが、いわれてみればそうだ」というぐらいがちょうどいいのである。さらに、「そういわれてみればそうとしか見えない」となれば、見立てが成功したといえる。本来は結びつく必然性のないもの同士を結びつけ、その結びつきが必然であったかのように感じさせるのが、いい見立てである。 2004年9月18日追記 「AでないものをAだということが見立てである」というのは、厳密には正しくない。これでは、鶴の模型は鶴ではないから、鶴の模型を鶴に見立てることができることになる。 正確にいえば、「AでないものをAだということによって、Aと結びつく必然性がないものをAと結びつけることが見立てである」というべきだろう。鶴の模型は、鶴と結びつく必然性を持ったものとして作られたのだから、それは見立てるまでもなく鶴と結びつく。それをわざわざ鶴に見立てるのは、屋上屋を架すことになる。 関連記事: ・千羽鶴問題・問題の整理 [/origami] ・なぜ動物なのか [/origami] ・千羽鶴問題・とりあえずの結論 [/origami] |
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