二〇一二年 睦月 卅一日 火曜日■ 検察の「暴走」・その1 [/links]三井環著『「権力」に操られる検察 検察には「風を吹かせる」という言葉があるそうだ。誰かを逮捕したいと思えば、その人が悪い人だと印象づけるような情報をマスコミに流す。マスコミはと言えば、記者クラブという談合組織があって、検察をはじめとする官僚が流す情報は、官僚の意図通りに視聴者や読者に流れる。そうして、この人は悪い人だという世論が形成される。それが検察にとっての追い風となり、逮捕・起訴に至る。さらに、裁判所もその世論に吹かれて、有罪判決を出す。その人が実際に悪いことをしたかどうかは、一切関係ない。日本の刑事事件の有罪率は99.9%だ。かくして、日本では数限りない冤罪が生まれてきた。 日頃マスコミ報道にしか接していない人には、このような話はにわかに信じ難いかもしれないが、これは現実だ。その一端は、最近の郵便不正事件で表に出始めたが、この本を読むと、それが決して例外的なことではなく、氷山の一角であることが分かる。 この本の著者は、大阪高検公安部長だった2002年、テレビ番組で検察の裏金を告発しようとしていた当日に逮捕され、有罪判決を受けた。これは、口封じのためのでっち上げ逮捕に違いないが、三井によれば、これはさらに大きな問題の始まりだった。検察の裏金を政府や与党政治家が知るところとなったため、検察は弱みを握られてしまい、権力の意のままに操られているという。 その2へ続く。 [この記事だけを読む。] [この記事にコメントを書く。] [最新の記事を読む。] 二〇一一年 師走 廿四日 土曜日■ 算数における掛け算について [/links]「5人が鉛筆を3本ずつ持っています。鉛筆は全部で何本ありますか。」という問題に対して、5×3=15 は不正解で 3×5=15 が正解とされる場合がある。これに対して批判する意見も擁護する意見もあるが、私が目にしたかぎりでは、いずれの立場からの意見も考察が不十分であるように思う。 まず、多くの批判派は「こんなこと自分が小学生ときは習わなかった」と言うが、それはおそらく事実として違う。昔から、小学校の算数には「掛ける数」と「掛けられる数」の区別がある。そして、掛け算は「掛けられる数×掛ける数=答え」と書くことになっている。私もそう習った記憶がある。 そう言うと、批判派は「a×b=b×a」という数学の法則を持ち出すだろう。掛け算では順番は関係ないではないか、というわけだ。それに対する擁護派の反論は、答えの数が同じでも、答えの単位が異なるということだ。擁護派は言う。答えの単位は掛けられる数の単位に一致する。「5人×3本=15人」であり、「3本×5人=15本」である。したがって、前者の式で「15本」と答えるのは不正解だ。 しかし、この説明は間違っている。「人」と「本」を掛けたら、答えの単位は「人本」になるはずだ。例えば、「時速4kmの速さで2時間歩きました。何km歩きましたか。」という問題なら、4km/時×2時=8kmとなるが、ここで単位だけに注目すると、km/時×時=kmとなって、つじつまが合う。あるいは、「縦の長さが4cm、横の長さが2cmの長方形の面積は何平方cm2ですか。」という問題でも、単位を見るとcm×cm=cm2となっている。 この場合、掛け算の順序をひっくり返せることに注意してほしい。つまり、4km/時×2時=2時×4km/時=8kmであり、4cm×2cm=2cm×4cm=8cm2である。したがって、4×2=8 が正解で 2×4=8 が不正解という理屈は成り立たない。こういう場合は、「掛ける数」と「掛けられる数」の区別は意味を持たないし、掛け算の順序に関係なく正解としなければおかしい。 では、鉛筆の問題では、単位はどうなっているだろうか。ここで2つの考え方が可能だ。1つは、5人が1人あたり3本の鉛筆を持っているという考え方で、「3本/人×5人=15本」となる。もう1つは、3本を1まとめにして、それが5つあるという考えで、「3本×5=15本」となる。 前者の考えでは、速さや面積と同じように、掛け算の順序をひっくり返すことができる。つまり、「5人×3本/人=15本」としてよい。この場合は、「掛ける数」と「掛けられる数」の区別は意味を持たない。高校以上の数学になじんでいる人は、たいていこちらの考え方をする。批判派が、順番が逆になると不正解というのはおかしいと感じるのは、多くの場合このためだろう。 一方、小学校の低学年で教えられるのは後者の考えだ。ここで、掛ける数が無単位になっていることに注意してほしい。答えの単位が掛けられる数の単位と一致する以上、掛ける数は無単位でなければならない。つまり、この掛け算は、本数と人数を掛けているのではない。掛けられる数は本数であるが、掛ける数は人数ではない。「3本×5人=15本」は誤りなのだ。 では、掛ける数とは何か。「3本×5=15本」というのは、実は「3本+3本+3本+3本+3本=15本」の省略形なのである。掛ける数とは、同じ数をいくつも足し算するときの、足される数の個数なのだ。だから、掛けられる数には単位があるが、掛ける数には単位がない。このように、掛ける数と掛けられる数は性格が大きく違う。 そこで擁護派はこう言うだろう。「3×5=15」は「3本+3本+3本+3本+3本=15本」の省略形であるのに対し、「5×3=15」は「5人+5人+5人=15人」の省略形だ。したがって、前者が正解であるのに対し、後者は不正解である。 しかしそれは、「掛け算は『掛けられる数×掛ける数=答え』と書く」という規則を前提としている。「5×3=15」を「掛ける数×掛けられる数=答え」と見れば、「5×3本=15本」であり、何の問題もない。言い換えれば、「5×3=15」を「5人+5人+5人=15人」ではなく「3本+3本+3本+3本+3本=15本」と解釈して悪い理由は何もない。 結局のところ、掛け算の順番を問題にする教師は、掛ける数と掛けられる数の区別が理解できているかどうかをテストで見るために、「掛け算は『掛けられる数×掛ける数=答え』と書く」という規則を導入して、その通りに書いてあれば理解していると判断し、逆になっていれば理解していないと判断していることになる。これはもちろん、評価方法として適切ではない。掛ける数と掛けられる数の概念を理解していることと、掛ける数と掛けられる数のどちらを先に書くかということは、本来は関係がない。 私が思うに、掛ける数と掛けられる数の違いを小学生に教えることそのものに無理がある。もちろん教えてもよいのだが、それならば「3本×5人=15本」などという間違った説明をしてはいけない。しかし、掛けられる数には単位があるが掛ける数は無単位だ、などということを理解できる小学生がどれだけいるだろうか。それが無理なので、「掛け算では、最初の数を『掛けられる数』といい、後の数を『掛ける数』という」というような教え方しかできない。だから、順番を逆にすると不正解にする。そんな教え方は無意味だ。 2011年12月26日追記 仮に「掛け算は『掛けられる数×掛ける数=答え』と書く」という規則を受け入れたとしよう。その場合でも、「5人の人に鉛筆を3本ずつ配ります。鉛筆は全部で何本いりますか。」という問題なら、どちらの順序でも正解となる。最初の人に3本配り、次の人に3本配り、というように配れば、3本ずつの組を5つ作ることになるから、答えは「3本×5=15本」となるが、5人の人に鉛筆を1本ずつ配り、それを3回繰り返すという配り方なら、5本ずつの組を3つ作るのだから、答えは「5本×3=15本」となる。なるほど、このような配り方は不自然かもしれないが、トランプならごく自然な配り方だし、不自然であることは不正解の理由にはならない。 [この記事だけを読む。] [この記事にコメントを書く。] [最新の記事を読む。] 二〇一一年 長月 八日 木曜日■ 福島原発事故について・その15 原子力発電のコスト・その2 [/links]その14で、原子力発電の直接的なコストは、官僚がでっち上げたモデルではなく発電実績に基づいて計算すると、安くないと述べた(原発の発電単価も参照)。加えて、原子力発電には膨大な間接的コストがかかっている。主なものは4つある。 まず、廃炉や放射性廃棄物処理などのバックエンド費用がある。これは本来、原子力発電のコスト計算に含めるべきものだが、一部しか含まれていない。なぜかと言えば、いくらかかるか見当もつかないからだ。 廃炉の費用は、かつて1基あたり200億円と見積もられ、2002年の試算では500億円とされたが、実際に東海原発1号機を廃炉にするにあたっては930億円が必要だという。福島第一原発を含め、日本の原発には本来の耐用年数を過ぎても稼働し続けているものが多いが、廃炉の費用が高額であることを隠し続けるために廃炉を先延ばしにしてきたという理由もあるだろう(原子力発電所は建設費が高いので、長く使うほど平均の直接コストが下がるという理由もあるだろう)。そのために今回のような事故が起きたのだからやりきれない。 さらに問題なのは、使用済み核燃料の処分だ。放射能がなくなるまでには数万年かかるので、最終処分の場所はおろか、方法すらまだ固まっていない。世界で唯一、フィンランドのオンカロで最終処分場の建設が進んでいるが、これだけで用が足りるわけではないし、ここがうまく行くかどうかも分からない。なにより、数万年間の運用と維持にどれだけの費用がかかるのか、誰にも分からない。 次に、広告費がある。電力会社は広告宣伝費を公表していないが、日経広告研究所によると、東京電力の広告宣伝費が243億円、電力会社10社で869億円だという。これに電気事業連合会が加わる。電力会社は、インタビューを1回するだけで500万円を払うという。独占を認められている企業がどうしてこれだけ宣伝しなければいけないかと言えば、原発は安全かつ必要だとアピールするためだ。これは実質的には原子力発電のコストなのだが、会計上はもちろん企業全体の事業運営費になっているだろう。 第三に、原子力発電所を受け入れた自治体には、いわゆる電源三法に基づいて多額の交付金が支払われる。(9月17日追記 これに加えて、東京電力は、青森県、福島県、新潟県に年平均20億円を寄付しているという。)これは、それ自体が原子力発電のコストを引き上げるだけでなく、財政難に苦しむ過疎地の弱みにつけ込んで原発のリスクを押し付けるものであるから、倫理的にも許されない。多額の補助金を払わなければ受け入れてもらえないほど危険なものは、はなから作らなければよい。危険すぎて東京に作れないものを、過疎地に金を握らせて無理矢理作るというそのやり方が気に食わない。中央の役人や経営者は、地方の人を人と思っていないのだろう。 経産省は、福島第一原発の事故を受けて反原発の機運が高まる中、交付金をこっそり増額した。しかも、既存の原発については、稼働を再開しなければ交付金が減るようにした。このような、金にものをいわせる乱暴なやり方は、政治的に稚拙であると同時に、官僚や財界の地方に対する差別意識を表している。沖縄の米軍基地も同じ構造だが、彼らは、金さえ払えば、自分たちの利益のために地元住民を危険にさらしてもよいと思っているのだろう。 最後に、事故が起きたときの損害額が膨大だ。福島第一原発事故の犠牲者を見積もるのは難しいが、数万人から百万人のあいだといったところだろうか。福島県などでは除染を行っているが、福島県全域を除染するには800兆円かかるという。今からでも大規模な避難をすれば、もっと低いコストで犠牲者の数を減らすことができるはずだが、それでも数兆円かそれ以上になるだろう(避難ではなく除染をするのは、除染事業で儲けようとする人がいるかららしい)。また、食品の放射能汚染については全量を検査するべきで、事故後にあわてて決めた暫定基準ではなく国際的に通用する基準を上回ったものについては、東電なり政府なりがすべて買い上げて廃棄すべきだ。放射能汚染は数十年続くから、すべてを適切に補償すれば、数百兆円でも足りないかもしれない。 ところが、政府や東京電力は、必要な補償をせずにすませようとしている。健康被害については、放射線との因果関係は認められないと主張するだろう。裁判になっても、政府に都合のよい証言をする御用学者はいくらでもいるし、日本の裁判所が政府に都合の悪い判決を下すことは滅多にない(たとえば福島第一原発事故の精神的被害の補償についてを参照)。食品の放射能汚染については、高すぎる暫定基準を改めることもなく、検査体制を万全にすることもなく、本来は自分たちが買い取らなければならないものを消費者に買わせている。放射能のある瓦礫についても、放射性廃棄物として適切に処理するコストを惜しんで、全国にばらまいて燃やそうとしている。 それでいて、東京電力の上場は維持され、債権者は保護されている。もっとも、東京電力の社債の残高は5兆円以上あるし、事故の直後にも銀行団が2兆円を緊急融資しているので、東京電力が倒産すれば日本の経済全体が吹っ飛ぶだろう。また、補償のために数兆円規模の増税をすれば、やはり日本の経済が崩壊するだろう。それはとりもなおさず、原子力発電というのは、ひとたび事故が起きれば、経済力が世界第三位の国の経済が丸ごと吹っ飛ぶほどの被害が生じるということにほかならない。これに適正な保険をかけようとしたら、原子力発電は経済的にまるで割に合わなくなるだろう。 福島原発事故に関する連続記事は、ひとまずこれで一段落としたい。 [この記事だけを読む。] [この記事にコメントを書く。] [最新の記事を読む。] 二〇一一年 葉月 廿一日 日曜日■ 福島原発事故について・その14 原子力発電のコスト・その1 [/links]日本が国策として原子力発電を推進している理由として、その12で日米両国の核戦略を、その13で資源をめぐる地政学的戦略を指摘した。まとめれば、原子力発電は、核武装の能力を維持するためのものである一方、日本を米国の支配下にとどめるためのものでもある。このようなことを書くと陰謀論だなどと言われそうだが、これ以外に日本政府が原子力発電を推進するべき理由は、私には思い当たらない。 では、電力会社が原子力発電を推進するのはなぜだろうか。もちろん、天下りした役人を役員に抱えているので、国策に従わざるを得ないということもあるだろう。しかし、もう1つの理由は、原子力発電のコストにある。 日本の場合、電力会社には地域独占が認められているので、電気料金を市場で決めることができない。そこで、コストが上がった分だけ電気料金を高くできるようになっている。これを「総括原価方式」という。原子力発電所は建設コストが高いので、電力会社とすれば、原発を作れば作るほど電気料金を上げることができる。その結果、日本の電気料金は先進国の中でも高くなった。一方、原発の運用コストは安いので、原発の依存度を上げれば利潤を増やすことができる(詳しくは原発新設の莫大なコストが莫大な儲けに直結を参照)。 原発の建設コストが高いということは、原子炉メーカーや建設会社が大きな利益を得られるということでもある。また、運用コストが安いといっても、人件費は高い。被曝をするような仕事に対して高い給料が支払われるのは当然なのだが、この高い人件費がすべて現場の労働者に届くわけではない。原発の作業員はほとんどが下請けだから、途中でいくらか差し引かれる。それも、6次請けや7次請けまであると言われているので、分け前にあずかる人は多い。人集めに裏社会が関与しているという話もある。 このように、原子力発電に関しては、多くの人が儲かるシステムができている。コストをかければかけるほど、電力会社の取引先が儲かると同時に、総括原価方式のおかげで、電力会社も儲かる。割を食うのは、電気料金を払う利用者だ。 政府や電力会社は、原子力発電のコストは安いと主張しており、それを、原子力を推進する表向きの理由としている。しかし、それは特定のモデルに基づく計算結果だ。前述のように、原発は建設コストは高いが運用コストは安い。そのため、モデルの作り方によっていくらでも数字をごまかせる。実際、立命館大学の大島堅一氏が発電実績に基づいて計算したところ、発電に直接要する費用だけを見ても、原子力発電のコストは他の発電方法と比べて安くないという結果になった(参考PDF)。 さらに、原子力発電の間接的なコストは、他の発電方法に比べて莫大だ。これについてはその15で述べる。 [この記事だけを読む。] [この記事にコメントを書く。] [最新の記事を読む。] 二〇一一年 文月 卅日 土曜日■ 福島原発事故について・その13 原子力と資源 [/links]その12から続く。 3月11日の地震の前には、日本の電力の約30%は原子力で発電されていた。では、日本中の原発を止めると電力供給が30%少なくなるかというと、そんなことはない。原子力発電所の稼働率が通常80%程度であるのに対し、水力発電所と火力発電所の稼働率は、通常半分以下だ。この稼働率を80%程度にするだけで、電力は十分まかなえる(参考PDF)。実際、2003年にも日本中の原発を止めたことがあったが、停電は起こらなかった。 地震の直後は、東京電力と東北電力の管内で電力が足りなくなった。それは、原発に加えて多くの火力発電所も被害を受けたためだ。火力発電所の復旧はまだ完全には終わっていないものの、東京電力管内ではすでに電力の供給は十分に足りていて、東電は関西に融通しようかとすら言っている。電力使用量何%とか言っているのは、分母が実際の供給可能量ではなく、東京電力が予想した供給量であり、この数字は水増しされている。これが100%を超えても停電することはない。 そういうわけで、原発がなくなると電力が足りなくなるとか代替エネルギーが必要だとか言っている人は、不勉強か嘘つきかのどちらかだ。確かに自然エネルギーは、現時点では原子力の代替にはならないだろう。基本的に天気任せなので不安定であり、スマートグリッドと呼ばれる、電力をリアルタイムで細かく調整する技術が発展しなければ、頼りにすることはできない。しかし、原子力の代替は火力でよいのだ。 火力と言うと、二酸化炭素が出て地球が温暖化するなどと言い出す人がいるが、このブログで何度も指摘しているように、二酸化炭素により地球が温暖化するという仮説は科学的根拠がきわめて薄い。 石油ショックの頃なら、エネルギー源を石油に頼るのはよくないという意見が説得力を持ったかもしれない。しかし、ウランも石油と同様ほぼ全量を輸入に頼っており、埋蔵量も石油と同程度に限りがある。高速増殖炉が実用化されれば、利用可能な資源がはるかに増えるが、世界中で何十年も研究した結果、役立たずのもんじゅが残されたのみで、実用化の目処すらたっていない。なにより、そもそも最近の火力発電所は石油をあまり使わず、天然ガスを使うことが多い。 原子力発電所をすべて廃止して火力に置き換えると、何か不都合なことがあるのだろうか。 日本がウランをどこから輸入しているかというと、オーストラリアとカナダで半分以上になる。ウランの産出量ではカザフスタンも多いが、カザフスタンからの輸入はごく少ない(増やすための準備を進めているようだ。参考PDF)。一方石油は、9割近くを中東から輸入している。かつて世界の石油はセブンシスターズと呼ばれる英米系の石油メジャーが支配していたが、現在は各産油国の国営企業が主導権を握っている。また、天然ガスの輸入は、東南アジア、中東、ロシアでほぼ8割を占める。 日本が火力発電に対する依存を増やすと、日本に対する中東やロシアの影響力が強まり、英米の影響力が相対的に低下する。そのことを快く思わない人が、日本にも米国にもいる。米国の英米中心主義者や日本の対米従属派は、日本を米国の影響下に保ちたいと思っていて、資源もそのための道具となっている。実際、日本がイランのアザデガン油田を開発しようとしていたところ、米国の圧力によって撤退させられた。田中角栄元首相がロッキード事件を起こされたのも、米国から離れて独自の資源外交をしようとしたからだと言われている。 日本政府が原子力発電にこだわる理由の一端がここにあるのではないかと私は推測している。 その14に続く。 [この記事だけを読む。] [この記事にコメントを書く。] [最新の記事を読む。] |
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