blog.鶯梭庵

二〇一〇年 皐月 卅日 日曜日

「2010年度武満徹作曲賞本選演奏会」@ 東京オペラシティコンサートホール [/music]

今年の審査員はトリスタン・ミュライユ。演奏は、大井剛史指揮東京フィルハーモニー交響楽団。

1曲目は、ホベルト・トスカーノの「... FIGURES AT THE BASE OF A CRUCIFIXION」。ベーコンの絵画に基づいているという。標題音楽ではないというが、ベーコンの絵画を思わせるような響きが確かにあった。オーケストレーションが巧みで、特殊奏法の使い方も効果的だった。それぞれの響きが繊細に作られており、音量が大きくなっても、その繊細さが失われることがない。

2曲目は難波研の「Infinito nero e lontano la luce」、3曲目は山中千佳子の「二つのプレサージュ」。どちらもあまり感心しなかった。オーケストレーションはありきたりで、楽想の進め方もぎこちない気がする。3曲目の最後のサイレンはあまりに安直だと思った。

4曲目はアンドレイ・スレザークの「Aquarius」。これも1曲目と同様、響きが丁寧に作られており、曲の運びも滑らかだった。プログラムノートには、空間的に2つに分割されたオーケストラによって演奏するとあるが、その効果はあまりよく分からなかった。それでも十分面白く聞いたが、演奏次第ではもっと面白く聞こえるのかもしれない。

なお、ミュライユの審査結果と講評が早速公開されている。

だいじろうさんのコメント:
貴方のこのブログで、心傷ついている人がいます。
創作に対しての感じ方は人それぞれですから、良くなかったという感想も勿論あると思います。良い感想を公表することは誰の害にはなりませんが、マイナスの感想をインターネット上で公開するのはいかがなものでしょうか。不特定多数の人がその感想を目にして、実際の作者に会ったことも無く作品を聴いたこともないのに、貴方の個人的な感想によって良くない先入観を持ち兼ねません。そして、作者自身が貴方のブログを万が一目にした時に、非常に心痛めるとは思いませんか?
お見受けしたところ、折り紙による作品も発表されているようですが、貴方のその作品に対して、マイナスの感想を偉そうに公表している赤の他人のブログを見にしたら、貴方はどのように思われるのでしょうか。

羽鳥さんのコメント:
だいじろうさん、コメントありがとうございます。
芸術というものは、よいことを言う人がいて、悪いことを言う人がいて、それをふまえたりふまえなかったりして各鑑賞者が自分で判断して、発展してゆくものではないでしょうか。
その意味では、私の感想を書いただけでは不十分であることは確かで、そのためにミュライユの講評にリンクをはったのですが、リンク切れになっていました。その点はお詫びします。直しておきました。
自分が悪いことを言われたらどう思うかということですが、私は、よく言ってもらうことがうれしいのはもちろんですが、次にうれしいことは悪く言ってもらうことで、無関心が一番がっかりします。
マイナスの感想は、自分が納得できれば次の作品に活かせるのだし、自分で納得できなければ、この人はわかってないなと思えばよいのではないでしょうか。この作曲賞はもともと武満が1人で審査員をしていたわけですが、なぜ1人かといえば、評価が低かった人が、この審査員はわかってないなと思えるからだというようなことを言っていたと記憶しています。

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二〇〇九年 文月 二日 木曜日

スティーブ・ライヒ『ディファレント・トレインズ』『エレクトリック・カウンターポイント』 [/music]

スティーブ・ライヒはミニマリズムの創始者の1人とされている。ミニマリズムというのは、短い音形を反復して音楽を作るものだが、ライヒの場合は単に繰り返すのではなく、複数のパートが少しずつずれてゆくという仕掛けがこらされている。個々のパートは単純でも、徐々にずらされることで、最終的に聞こえる音景は次々と変化する。その結果生まれる純粋かつ複雑な音楽は、他のミニマリストからは一線を画す。

ライヒは「カウンターポイント」と題する曲を何曲か書いているが、1987年の『エレクトリック・カウンターポイント

』はエレキギターで演奏される。カウンターポイントとは、日本語では対位法といい、本来は複数の異なる旋律を同時に演奏することをさす。ここでは、3つのパートが重ねられるが、それをすべてパット・メセニーが演奏している。2つのパートはあらかじめ録音しておき、それをテープで流しながら、もう1つのパートを演奏する。

ライヒの音楽には社会的なメッセージが含まれることがある。1988年の『ディファレント・トレインズ』もその1つで、ライヒの個人的な思い出とともに、ユダヤ人としての自分の出自を取り扱っている。この曲は3楽章からなり、それぞれ「アメリカ、戦前」「ヨーロッパ、戦中」「戦後」と題されている。テープと弦楽四重奏で演奏される。

ライヒの両親はニューヨークとロスアンゼルスに離れて住んでいたため、ライヒはしばしば列車に乗って大陸を横断していた。それを思い起こすかのように、列車の音がテープから流れ、弦楽器もその音をまねる。さらに、テープには人の声も含まれているが、それがメロディとして扱われ、楽器もそのメロディをなぞる。この手法は、ライヒの後の作品でも多用されることになる。

第2楽章で使われている声は、ホロコーストを生き延びた3人のユダヤ人のインタビューからとられている。音楽も、ノスタルジックな第1楽章とは雰囲気が異なり、戦時中の重苦しい空気を表している。そして第3楽章には、アメリカの列車の音が戻ってくるが、ヨーロッパのユダヤ人たちは安心しきってはいない。

なお、クロノス・カルテットが演奏したこのCDで、ライヒはグラミー賞を受賞している。

2曲とも3楽章構成で、伝統的な急・緩・急のソナタ形式を踏襲していると言えなくもない。対位法や弦楽四重奏という形式にもクラシック音楽の長い伝統がある。しかし、音楽の内容はきわめて現代的だ。それは、第二次世界大戦と戦後の社会という現代的なテーマを取り上げているからでもあるし、ポピュラー音楽、特にテクノミュージックに近づいているからでもある。

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二〇〇九年 皐月 卅一日 日曜日

コンポージアム2009「武満徹作曲賞本選演奏会」@ 東京オペラシティコンサートホール [/music]

毎年好例のシリーズ。今年の審査員はヘルムート・ラッヘンマン。演奏は本名徹次指揮東京フィルハーモニー交響楽団。

1曲目はルカス・ファヒンの「Crónica Fisiológica Universal」。題名は、宇宙の生理的歴史、という意味だそうだ。全編にわたって特殊奏法が使われているのだが、音響は非常に視覚的で、宇宙が生まれて進化する映像が目に浮かぶ。作曲技術がきわめて高度だと感じた。しかし、やや唐突な終わり方をしたせいか、演奏が終わった後の私の中には何も残らなかった。

2曲目はラファエレ・グリマルディの「Creatura temporale」。これも特殊奏法を使いまくっているが、響きはとても面白い。やはり作曲技術は非常に高いと思う。こちらの終わり方は自然だったが、1曲目と同様、技術が先に立ちすぎて内容に乏しかったように思う。

3曲目は木村真人の「果てしなき反復の渦−混沌の海へ」。ラッヘンマンも譜面審査のコメントで述べているように、この曲は、他の4曲とは異なり、「ラッヘンマン的」でない。つまり、特殊奏法をほとんど使わず、「常套的な器楽作法も躊躇なく多用」している。それでも、音響は決して常套的にはなっておらず、ラッヘンマンがファイナリストに選んだのも納得できる。標題音楽的に海を描写するのではなく、海の持つ力を再現している。海というよりも、生命の力強さを感じた。やや直裁的すぎるという気もするが、思う存分書きました、という感じで、私は好感を持った。

4曲目は山本和智の「ZAI for Orchestra」。題名はアイヌ語で「群れ」と同時に群れを構成する要素も意味するそうだ。オーケストラは8群に分割されており、その中にはジャズバンド風の構成のものがある。曲の終わり近くで、各アンサンブルがそれぞれの音形を奏しはじめ、混沌とするのだが、ジャズバンドはもちろんジャズを奏でていた。さらに、コーダの部分では演奏家が拍手をする。この2点については、奇を衒いすぎているように感じた。

5曲目は、酒井健治の「ヘキサゴナル・パルサー」。前の曲と比べオーケストラの規模はぐっと小さくなったが、音は力強さを保っていた。ということは、個々の楽器の使い方がうまいのだろう。オーケストラは4群に分けられており、そのことによって曲の形式が分かりやすくなっていたように思う。オーケストラが客席を取り囲むように配置できたら、もっと面白いのではないか。それでも十分な説得力があり、完成度が非常に高いと思った。

私が勝手につけた順位は、1位酒井さん、2位木村さん、3位グリマルディさん。所用があって、ラッヘンマンの審査結果は聞かずに帰ってしまった。

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二〇〇九年 卯月 十二日 日曜日

ヘンリク・グレツキ『悲歌のシンフォニー』 [/music]

ポピュラー音楽の世界ではミリオンセラーは珍しくないが、音楽ファンの中でクラシックファンが数パーセントで、その中でも現代音楽ファンが数パーセントだとすると、現代音楽の CD は1000枚売れれば大ヒットということになる。

そんななか、ドーン・アップショウのソプラノ、デイヴィッド・ジンマン指揮ロンドンシンフォニエッタの演奏するヘンリク・グレツキの『交響曲第3番・悲歌のシンフォニー』は、1998年までに100万枚売れたというから、現代音楽としてはとてつもないヒットとなっている。

グレツキは1933年生まれのポーランドの作曲家。ポーランドは当時東側だったが、1956年以降「ワルシャワの秋」音楽祭が開催され、西側の前衛音楽に開かれた窓口であった。グレツキも当初は前衛的な音楽を書いていたが、1970年代になると、調性的でゆっくりとした、比較的単純な音形を繰り返して曲を作るようになる。

1976年に書かれた『交響曲第3番』もその1つだ。前衛音楽の名残があるとすれば、ダイナミックレンジが大きいことくらいか。それでも、この曲では音の動きは終止ゆっくりとしていて、これ以降の作品のように音の強弱が急に変わるということはない。

曲は、レント、レント・エ・ラルゴ、レントの3つの楽章からなる。歌詞は、第1楽章が15世紀の哀歌、第2楽章はザコパネの強制収容所の壁に残された祈りの言葉、第3楽章は戦争で我が子を失った母親の悲しみを歌ったシレジア地方の民謡からとられている。全体として、戦争によって引き裂かれた母と子の悲しみと祈りがテーマとなっており、純粋に涙を誘う。

しかしこの曲はすぐに有名になったわけではない。アップショウとジンマンが演奏する CD が1992年にリリースされ、その第2楽章がロンドンのラジオ局でかかったことがきっかけで、爆発的なヒットとなった。「癒しの音楽」のブームに乗っかったという側面もあるだろうが、しかしグレツキの音楽はカトリックの深い信仰に根ざしており、癒しの音楽にしばしば見られる軽薄さとは無縁である。

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二〇〇九年 弥生 廿九日 日曜日

録音された音楽を聞くということ [/music]

宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』を読んだ。カラヤンの音楽には以前から毀誉褒貶があるが、この本での非難の矛先は、カラヤンの音楽そのものよりも、カラヤンに代表される価値観に向けられている。それは、拝金主義であり、現状肯定主義であり、世界苦に対する知的無関心だ。

そのような価値観に安住する凡庸な「大衆」に対する非難については、私も大いに同意する。表層的で「美しい」音楽ばかりが鳴り響いている現状に対しては、それだけが音楽ではない、音楽はそれ以上のものだと叫びたい。

しかし、この本を読み進めていると、拭いがたい違和感を感じる。それは、宮下が、録音された音楽について延々と書き連ねていることに起因している。音楽、特にオーケストラの音楽を録音で聞いたところで、音楽の楽しみの半分も享受できるだろうか。「大衆」化に対抗する「真正なる芸術」が、録音から聞き取れるだろうか。

クラシックに限らず、一般に音楽を録音で聞くというのは、絵画を実物ではなく写真で見るのと同様、疑似体験である。しかし、演奏会場に足を運ぶだけの時間的・金銭的余裕のある人は限られていることも事実だ。音楽を生で聞けない人たちのために録音がある。とすれば、音楽を録音するということは、音楽の大衆化と必然的に結びつく。

カラヤンは、音楽の録音にきわめて意識的かつ積極的だった。真偽のほどは知らないが、CD の録音時間が74分になったのは、カラヤンが振る第九が1枚に収まるようにするためだったという話があるくらいだ。それならば、カラヤンは意識的に音楽を大衆化したのではないだろうか。カラヤンがクラシックを殺したというなら、録音がクラシックを殺したといっても同じことに思われるのだが、しかし宮下が、クレンペラーとケーゲルの録音された音楽を数多く取り上げ賞賛していることに、大きな違和感を感じる。

日常的に音楽を聞く人は多いが、日常的に生の音楽を聞く人は少ない。日常的に生のクラシック音楽を聞く人は、さらに少ない。一握りの特権階級しか享受していないとしたら、それが真正の芸術だといっても、どんな意味があるだろうか。芸術がコミュニケーションだとしたら、受け手を考慮せずに自分の言いたいことを言うだけの表現は、独りよがりでしかない。それよりは、クラシック音楽を大衆化してでも、聴衆の裾野を広げたカラヤンの方に、意義を認めるべきではないだろうか。もちろん、カラヤンのクラシックだけが、あるいは録音されたクラシックだけが、クラシックではないと急いで付け加えなければならないが、大衆化されたクラシック音楽でも、何もないよりはましだ。

カラヤンが演奏するさまざまな曲からアダージョだけを集めた CD は、確かに陳腐だが、これで初めてクラシック音楽に触れたという人が数万人いるとすれば、それはそれでよいことなのではないか。


このブログでも、今までは私が生で聞いたコンサート評だけを書いて、CD 評はあえて書かなかったのだが、現代音楽を聞く人の数はクラシック音楽よりもさらに少ないことを考えれば、「聞きやすい」現代音楽の CD を紹介するのも無意味なことではないと思うようになった。今後は CD 紹介も書こうと思う。

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羽鳥 公士郎