二〇〇八年 水無月 七日 土曜日■ 「折り紙的」の歴史的考察 [/origami]この記事は書かれてから1年以上経過しています。内容が古くなっている可能性があります。コメントの受付は終了しました。 「折り紙における見立て・中央ではあるが中心ではない」で、現在の折り紙の広がりを見渡す座標軸として、写実−抽象と折り−紙という2つの軸を設定した。 そこで、現在の作品ではなく伝承作品がこの平面のどこに位置するかと考えてみると、折り鶴にせよパハリータにせよ、多くの伝承折り紙が、写実と抽象の中間で、紙よりは折りに寄ったところにあることが分かる。江戸自体には、なまずやでんでん虫など、紙に寄った作品もあったが、折り紙に和紙が使われなくなったことで、それらはすたれてしまった。多くの作品は見立てを伴うが、玉手箱やフレーベルの美の形式といった抽象的な作品も存在しており、これは形を変えながら現在につながっている。 そうすると、伝承作品の位置は、見立てから抽象にかけての折り側ということになる。これは、「折り紙的」と呼ばれる作品の位置とぴったり重なる。 写実的な作品が折り紙的と言われないのは、分からないでもない。写実を追求すればするほど、対象物の形に近づくから、折り紙の造形である必然性は薄れてゆく。しかし、それだけでは、抽象的かつ紙寄りの作品が折り紙的と言われないことが説明できない。 おそらく、「折り紙的」というのは、子供のころから伝承作品を折ってきたために慣れ親しんでいる折り紙という意味なのだろう。その証拠に、海外の折り紙作家で「折り紙的」に相当するようなことを言う人はほとんどいない。彼らには伝承作品の刷り込みがない一方、紙に大幅に寄った吉澤章さんの折り紙が古典として受け入れられているからだろう。 タトさんのコメント: |
カテゴリ
[/language] (98) 最新記事
◇ パスワードについてのあなたの常識はもはや非常識かもしれない・その1 [/links] |