blog.鶯梭庵

二〇〇七年 皐月 廿五日 金曜日

コンポージアム2007「西村朗 オーケストラ作品展」@ 東京オペラシティコンサートホール [/music]

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コンポージアム2007の第3夜。西村朗のオーケストラ作品が3曲演奏された。作曲年代がほぼ10年ずつ離れており、さながら西村作品の変遷をたどる風だった。演奏は、ピアノの白石光隆と小坂圭太、バイオリンの竹澤恭子、そして飯森範親指揮 NHK 交響楽団と、実力者揃い。

演奏会の副題に「光と波動の交響宇宙」とあるように、西村のオーケストラ作品には光があふれている。光にも圧力や運動量があるというのは現代物理学の教えるところだが、西村が描く光には、それに加えて、質量や質感がある。

最初の曲は「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」(1987)。ここでは、光は猛烈な渦を巻きながら、まるで煙のように立ち上る。2曲目の「ヴァイオリン協奏曲第1番《残光》」(1998・日本初演)では、光は重量を増し、夕暮れの大地を覆いつくすようにたなびく。そして3曲目、「幻影とマントラ」(2007・日本初演)では、光は地面の中にしみ込み、死者の世界に達する。そしてそこで、再び力強く、しかし静かに、渦巻き始める。

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二〇〇七年 皐月 廿一日 月曜日

コンポージアム2007「西村朗 弦楽四重奏曲全集」@ 東京オペラシティコンサートホール [/music]

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2年の休止を経て再開されたコンポージアム2007の第1夜。西村朗の、新作を含む弦楽四重奏曲全4曲を、アルディッティ弦楽四重奏団が演奏した。

音楽は時間芸術であると言われるが、その時間は、必ずしもまっすぐ流れるとは限らない。ニュートン的な絶対時間が水平に流れているとすれば、最初の「弦楽四重奏のためのヘテロフォニー」(1975-87)では、時間は円を描きながら停滞し、そうかと思えば垂直に立ち上がる。

続く「弦楽四重奏曲第2番《光の波》」(1992)では、やはり時間が行きつ戻りつするが、次第に水平に流れ始め、曲の最後の部分、ケチャのリズムが現れると、時間は飛び跳ねながら疾走する。この部分は曲の中でも圧巻だが、時間は、まっすぐ進んでいるように見えて、大きな円を描き、曲が終わると、元いた位置に戻っていることに気づく。

3曲目は「弦楽四重奏曲第3番《エイヴィアン(鳥)》」(1997)。ここでの鳥は、天井の世界と地上の世界とを結ぶ結節点であり、信号を伝達するチャンネルである。曲の前半、異界からの信号が猛烈に降り注ぐ。それは変換され、高度に圧縮されているので、私たちの処理能力を越える。そのため、時間の流れは飽和し、凍結する。しかし後半、地上から応答を試みると、時間は再びゆっくりと流れ始める。

最後の曲は、この日が世界初演となった「弦楽四重奏曲第4番《ヌルシンハ(人獅子)》」(2007)。ヒンズー教ビシュヌ神の神話に題材をとった作品。明確な物語を伴うため、時間もそれに沿って流れる。また、演奏家4人にもそれぞれ役が与えられている。第1バイオリンが魔神ヒラニヤカシプ(兄弟を殺したビシュヌに復讐するため、人にも獣にも殺されない身体を得た)、第2バイオリンがビシュヌ神の第1の化身(慈悲を表す)、チェロが魔神の息子プラフラーダ(ビシュヌ信者のため、魔神が殺そうとする)、そしてビオラがビシュヌ神の第2の化身ヌルシンハ(半人半獣で、魔神を八つ裂きにする)。曲は、特に魔神が声を荒げている描写など、表現が直接的に過ぎる部分もあるように感じたが、技巧的には前3曲に劣らず難曲で、面白い響きも随所にあった。

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二〇〇七年 卯月 卅日 月曜日

クラシックと現代音楽・その2 [/music]

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その1から続く。

現代音楽がクラシックの一分野だとして、現代音楽とは字義通り現代のクラシック音楽だと考えると、ベートーベンやバッハの音楽も作曲された当時は現代音楽だったということになる。しかし、それはそれで1つの考え方といえる。つまり、現代音楽といっても、特別な音楽ではなく、要するにクラシック音楽だという考えだ。WNYC2 が「現代音楽の400年」と言っているのは、まさにこれだ。

では、クラシック音楽の一分野でありながら、ほかのクラシック音楽とは区別されるものとして現代音楽を考えた場合、現代音楽とは何だろうか。そのような現代音楽は、ほかの分野の芸術と密接に関連を持ちながら生まれてきたものだ。そこで、現代音楽とは、クラシック音楽であり、かつ現代芸術であるもの、と言えるだろう。

では、現代芸術とは何か。絵画においては、モーリス・ドニのよく知られた言葉がある。「絵画は、軍馬や裸婦や物語である前に、ある秩序を持った色で覆われた平面であるということを忘れてはならない。」しかし、音楽はもともと、必ずしも物語を前提とするものではなかった。それゆえ、「すべての芸術は音楽にあこがれる」と言われるのだ。

現代音楽は、物語を前提としないばかりでなく、メロディーやリズムをも前提としない。メロディーやリズムは、音と音との関係から生まれるものだ。しかし、その前には、音そのものがあるはずである。現代音楽は、メロディーやリズムになる以前の、個々の音に耳を傾けようとする。

しかし、その音を、ある秩序で時空間に配置しなければ、音楽にはならない。そのときに、メロディーやリズムが生まれたり、物語が生まれたりすることもあるだろう。だが、そのような要素は、音楽にとって必要なものではない。では、メロディーもリズムも物語もないとしたら、音楽は何を語るのか。

そのような「抽象的な」音楽は、その音の秩序化のしかたが音楽であるということを語っている。言い換えれば、音楽とは何かということを音楽で語っている。たとえば、ジョン・ケージにとって、音楽とは音を聞くことにほかならず、その思想が『4分33秒』で端的に語られている。この曲では、演奏者は、休符を演奏することによって、聴衆に音を聞かせることが求められている。宮下がこの曲を「演奏者は四分三十三秒の間、演奏以外なら何をしても構わない」と紹介するのは、的外れと言わざるをえない。

音楽とは何かということを音楽で語るというのは、抽象的な音楽にかぎらず、現代音楽一般にあてはまるのだろう。芸術におけるモダニズムとは、単に伝統を否定して新奇をてらうことではない。現代芸術は、西洋芸術の根本的な自己反省から生まれた。音楽もその例にもれない。したがって、現代音楽は、音楽とは何かということの反省を常に伴っている。しかし、アルノルト・シェーンベルクに典型的なように、反省は、伝統を否定するためではなく、伝統を現代に受け継ぐために必要なのである。

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二〇〇七年 卯月 廿六日 木曜日

クラシックと現代音楽・その1 [/music]

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宮下誠著『20世紀音楽 クラシックの運命』を読んだ。クラシックとは何か、現代音楽とは何か、と改めて考えさせられた。

この本は、20世紀のクラシック音楽を俯瞰しようとするものだが、紹介されている作曲家や作品には、偏りがあるように思う。まず、独墺圏の作曲家に多くの紙幅が割かれている。また、ほとんどが交響曲やオペラといった「重厚長大」な作品で占められている。そして、いわゆる「現代音楽」よりも「クラシック音楽」に重点が置かれている。

この理由は、おそらく2つある。まず、筆者は、音楽の専門家ではなく、美術史家であり、20世紀のドイツ語圏の美術を専門としている。そのために、ドイツ・オーストリアの作曲家が詳しく描かれ、また解説の書きやすい交響曲やオペラが取り上げられているのだろう。

次に、筆者はどうやら CD や DVD に音源を頼っているらしい。録音されたものは、商業的に販売されなければならないから、1曲当たりの商品価値が高い長大な曲に、必然的に偏ることになる。(何しろ、1曲で CD 2枚というのもざらにあるのだから、CD を作る側としても楽だ。)また、いわゆる現代音楽の中には、録音で聞いたのではさっぱり意味が分からず、生演奏を聞いて(かつ見て)初めて楽しめるものも多い。

しかし、それよりも大きな問題が、この本の選曲に潜んでいるように思う。この本で取り上げられているのは、クラシック音楽と言うよりは、アカデミックな音楽と言うべきではないだろうか。

ジュゼッペ・ベルディのオペラやヨハン・シュトラウスのウインナワルツがクラシック音楽に含まれることに異論をはさむ人は少ないだろう。では、『アイーダ』のようなスペクタクル・オペラに相当する 20世紀の芸術は何かといえば、ハリウッド映画にほかならないと私は思う。リヒャルト・ワーグナーの『指輪』に相当するものは、カールハインツ・シュトックハウゼンの『リヒト』というよりは、ジョン・ウィリアムズの『スターウォーズ』だという方が適当だろう。また、シュトラウスに相当する 20世紀の作曲家といえば、アストル・ピアソラ、アントニオ・カルロス・ジョビン、ユッスー・ンドゥール、坂本龍一などを挙げるべきだろう。

とすれば、映画音楽やタンゴやボサノバも、20世紀クラシック音楽の仲間に入れてあげなければならない。特に映画音楽は、セルゲイ・ラフマニノフやセルゲイ・プロコフィエフ、エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトなどを経由して、19世紀のクラシック音楽と直接つながっている。そうなれば、クラシック音楽が「黄昏れて」いるなどとは決して言えないはずだ。「終わって」いると言われるのは、クラシック音楽一般ではなく、コンサートホールやオペラハウスで演奏されるアカデミックなクラシック音楽であって、それは 20世紀に作曲されたものに限らず、18世紀や 19世紀に作曲されたものもひっくるめて「黄昏れて」いるのである。しかしそれは、単に、20世紀には娯楽の選択肢が増えたからではないだろうか。

さて、このようにクラシック音楽を広くとらえたときに、その中にいわゆる現代音楽も含まれるわけだが、では、現代音楽とは何なのだろうか。この記事はすでに長くなってしまったので、その2に続く。

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二〇〇六年 長月 廿四日 日曜日

タン・ドゥン:『TEA』@ サントリーホール [/music]

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コンサートホールで演奏するためのオペラ。2002年に同じサントリーホールで初演された。そのときの写真を見ると、舞台装置は今回と同じようだ。舞台上にオーケストラが乗り、その周囲に舞台がしつらえられている。

タン・ドゥンは、1986年の『オン・タオイズム』で一躍注目を集めたが、ニューヨークにわたってからアメリカナイズされたと思う。酢の効いていない寿司、トウガラシの効いていないタイ料理。それはそれでおいしいから、よいのだけれど。

歌い手は、全体的に高音や弱音が響いてこなかった。英語の歌詞も魅力に欠けていると思う。原語は中国語だと思うが、原語で聞いてみたいと思った。

オーケストラの演奏は素晴らしかったが、打楽器の藤井はるか、稲野珠緒、福島優美が特に素晴らしかった。音ももちろん、身振りが美しい。水楽器の照明も見応えがあった。

私が個人的に興味を引かれたのは、もちろん紙楽器だ。手元でガサガサやっていた紙は、フロデュレール風の揉み紙をするのによいと思う。オーケストラのメンバーが一斉に譜面をバサバサめくるのは、意外に効果的だった。天井から吊るされた紙楽器は、長さ 5m ほどあろうか。あれだけねじったり叩いたりしても破れないということは、加工がしてあるのだと思う。これは折りにくそうだ。

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羽鳥 公士郎