blog.鶯梭庵

二〇一六年 師走 十六日 金曜日

帝王切開の「帝王」は誤訳なのか [/language]

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分娩時に母親のお腹を切開して赤ちゃんを取り出すことを「帝王切開」という。なぜ「帝王」なのか。

日本語の「帝王切開」はドイツ語の Kaiserschnitt を訳したものだと言われている。ドイツ語の Kaiser は、一般に「皇帝」と訳され、ラテン語の Caesar に由来する。Caesar は、ローマ帝国の君主号の1つであり、帝政の基礎を築いたユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)に由来する。

「帝王切開」は英語で Caesarean section または Cesarean section という。これもラテン語の Caesar に由来することは明らかだ。英英辞典を見ると、カエサルが帝王切開で生まれたという伝説が元だと書いてある。ドイツ語から日本語に翻訳するときも、カエサルという帝王が生まれたとされる方法だから「帝王切開」としたのだろう。

ところが、現在では、Kaiserschnitt や Cesarean section の語源はカエサルではないとされている。とすると、「帝王」というのは誤訳なのか。

帝王切開の「帝王」は「切られた」を意味するラテン語の誤訳だとする説がある。これには2つのパターンがあって、ラテン語の sectio caesarea をドイツ語に訳したときに caesarea と Caesar を混同して誤訳したとする説(ドイツ人が誤訳した説)と、ドイツ語の Kaiser には「切る」という意味もあるのに、日本語に訳すとき誤って「帝王」としたとする説(日本人が誤訳した説)がある。

そもそも、カエサルが帝王切開で生まれたはずはない。カエサルが生まれた時代に、あるいはもっと後でも、帝王切開をしたら母親は確実に死んでしまうが、カエサルの生母はカエサルが成長したあとでも生きていた。この伝説の大本は、大プリニウスが『博物誌』のなかで、Caesar という家名が「切られた母親の胎内(caeso matris utero)」から来ていると主張していることにある。

この主張、すなわち Caesar が caeso(「切られた」)に由来するという主張は、現在では疑問視されている。したがって、caesarea が「切られた」を意味するというのも、ありそうにない。「帝王」は「切られた」の誤訳だという説は退けてよいだろう。そもそも、sectio が「切開」の意味なので、caesarea が「切られた」だとすると、sectio caesarea は「切られた切開」になってしまう。

ローマ時代には、妊娠した女性を埋葬することが忌避されていたそうだ。そのため、分娩時に母親が死亡した場合、母親のお腹を切って胎児を取り出すことが法律で義務づけられていた。この法律が Lex Caesarea と呼ばれる。これが、英語の Caesarean section やドイツ語の Kaiserschnitt の語源だというのが、現在の通説になっている。

すると問題は、Lex Caesarea をどう訳すかということになる。日本語版の Wikipedia によると、これは「遺児法」という意味だという。caesarea は caeso に由来し、「切り取られた者」から「遺児」になったというのだが、caesarea と caeso の関連は先ほど退けた。「遺児法」は出鱈目に違いない。

英語版の Wikipedia によると、件の規定は Lex Caesarea の前身である Lex Regia からあるという。Lex Regia は、英語では royal law と訳される。「王国法」のような意味だ。それを受け継ぐ Lex Caesarea は、英語では imperial law と訳される。日本語に訳すとしたら「帝国法」あたりだろうが、「帝王の法」と訳して訳せないことはない。してみると、Lex Caesarea に由来する Kaiserschnitt を「帝王切開」と訳すのも、あながち誤訳ではないともいえる。

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羽鳥 公士郎