二〇〇六年 師走 二日 土曜日■ ら抜き言葉の必然性 [/language]この記事は書かれてから1年以上経過しています。内容が古くなっている可能性があります。コメントの受付は終了しました。 井上史雄著『日本語ウォッチング』(岩波新書)を読んだ。その中に、ら抜き言葉についての分析があり、興味深かった。この本によると、ら抜き言葉は、「ra」が抜けているのではなく「ar」が抜けていると考えることによって、室町時代以来連綿と続いている変化の過程であると見なせる。 もともと、「〜できる」と言うときの言い方は、末尾が「areru」だった。「読まれる」「書かれる」「行かれる」「来られる」「見られる」「食べられる」という具合だ。室町時代に「ar」の抜けた「読める」という言い方が登場し、明治時代までにほぼすべての五段活用動詞で「ar」が抜けた(「書ける」)。最後に残った「行かれる」も今では「行ける」になり、その変化が、カ行変格活用動詞に及んでいる(「来れる」)。さらに、上一段活用動詞および下一段活用動詞についても、短い動詞から順に、「ar」が抜けているのだ(「見れる」「食べれる」)。 さらに興味深い現象がある。「〜することができる」という場合、「勉強する」であれば「勉強できる」だが、「愛する」では、「愛できる」でもなく、「愛される」でもなく、「愛せる」だ。サ行変格活用動詞についても、短い動詞では、すでに「ar」が抜けている。 このように、ら抜き言葉は、日本語が変化する中で自然に発生したと考えられる。しかし、だからといって、今すぐすべての「ar」を抜くべきということにはならない。「重ねれる」「勉強せる」という言い方は、百年後には一般的になるかもしれないが、今はまだ一部でしか使われていないから、無理に使うことはない。 一方、すでに「ar」が抜けかかっているものについては、「ら抜きはいけない」と言って矯正しようとするのは、歴史を元に戻そうとするようなもので、無理なことだと思う。一部の地域では、もう数十年にわたって「見れる」と言ってきたのだから、それを「見られる」に戻そうとすれば、「読めれる」「書けれる」といった「れ足す言葉」を生む原因にもなる。 今まで「見られる」と言ってきた人が、自分で「見られる」と言い続けるのも「見れる」と言い換えるのも自由だが、他人が「見れる」と言うのに対して憤ったり嘆いたりする必要はないと思う。 |
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