二〇〇四年 霜月 十五日 月曜日
紙を折らない人にとって、折り紙作品とは何か
紙を折らない人にとって、折り紙作品とは、第一に見るものである。であるから、作品とは、折られた紙である。
折り紙は、音楽と似ている。音楽に作曲者と演奏者がいるように、折り紙には、創作者と制作者がいる。折り紙の創作とは、折り方を考えることであり、折り紙の制作とは、その折り方にしたがって折ることである。作曲され、楽譜という形で固定された曲は、音楽作品とよばれるが、一般の人がそのような音楽作品を鑑賞することはない。音楽作品が聞かれるためには、演奏されなければならない。同じように、創作され、折り図という形で固定された折り紙は、折り紙作品とよばれるが、一般の人がそれを鑑賞することはない。一般の人は、紙を折らない人が大多数なのであるから、折られた紙を見ることによって、折り紙作品を鑑賞する。
建築の場合、1つの設計図からは1つの建物しかつくらない。ところが、音楽や折り紙では、1つの設計図からいくつもの作品を作る。それらの作品は、同じ設計図から作られているから、互いに似ているが、一方、素材が違ったり、具体化する人が違ったりするから、互いに異なってもいる。ウィトゲンシュタインならば、同じ設計図から作られた作品のあいだには、家族的類似性があるというだろう。どれがオリジナルでどれがコピーということはない。それぞれの作品が、世界に1つしかないオリジナルなのだ。折り紙作品は、創作者の作品であると同時に、制作者の作品でもある。
人によっては、折り紙において、誰が折っても同じものができること(再現性)を重要視する。しかし、それは、折り紙は誰が折っても同じものができるからつまらないという考えにつながる。私の考えでは、折り紙に再現性があるとすれば、確かに折り紙はつまらないが、折り紙に再現性はない。折る人が違えば、必ず違うものができるし、同じ人が折っても、折ったときの気の持ちようが変われば、それは必ず作品に反映される。目に見える違いが生じないとすれば、それは気持ちがこもっていないだけのこと。ロボットが折れば再現性は得られるだろうが、そんな折り紙はつまらない。折り紙作品は、人が折ってこそ、折り紙作品になる。
もっとも、コンロン・ナンカローの自動ピアノのための曲のように、ロボットにしか折れない折り紙というのがあっても、面白いかもしれない。

コメント (3件)
蛋白室工房さんのコメント:
以前探偵団新聞で、高井さんが「あまりにも手数がかかりすぎるのでコンピューター上でしかできない折紙」について書いてましたね。
機械にしか折れない作品としては、プリーツマシーンみたいなのがでっかい紙を縦横1000等分くらいの蛇腹に折ったら、それはそれで作品と言えるかも。その機械と作業過程まで含めて。
前川さんのコメント:
第三者のためのお節介:「家族的類似性」という述語であるが、上記では、ひとつの設計図からつくられたという「直系の血統」が暗示されてしまうところがあるが、(家族的という言葉そのものがそれを喚起するところもある) ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」にはそのような含みはあまりない(とわたしは理解している)。グループのメンバーのすべてに共通する特徴はないが、メンバーどうしはどこかが共通しているというグループを表す述語である。
前川さんのコメント:
↑ 上の「述語」は「術語」の誤りです。
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