以前探偵団新聞で、高井さんが「あまりにも手数がかかりすぎるのでコンピューター上でしかできない折紙」について書いてましたね。
機械にしか折れない作品としては、プリーツマシーンみたいなのがでっかい紙を縦横1000等分くらいの蛇腹に折ったら、それはそれで作品と言えるかも。その機械と作業過程まで含めて。
11月15日の記事紙を折らない人にとって、折り紙作品とは何か
を書いたときには、あまり意識しないで「家族的類似性」という言葉を使ったけれど、前川さんの書き込みがあって、じっくり考えてみると、実はこの言葉を使ったことには重要な意味があったように思う。
家族的類似性についての、前川さんの理解は正しいと思う。設計図が親で作品が子供という関係があるのではなく、作品同士が、互いにどこか似ているが、すべてに共通する特徴はない。ということは、折り紙でいえば、折り図や展開図が、制作された作品に対して、規範としての機能を持たないということではないだろうか。それは参考にするもので、従うものではないのではないか。
創作された作品は、制作された作品の集合から抽出される抽象的な存在であるように思われるのだが、すべての制作された作品に共通する特徴がない以上、創作された作品がプラトン的なイデアとして機能することはあり得ない。そして、制作された作品の集合には常に新しいものが加わってゆくのだから、創作された作品は、○○さんの創作した○○という作品だということは動かないとしても、その内実は少しずつ変わってゆくことになる。
創作された作品を、このようなダイナミックなものとしてとらえれば、折り図や展開図があったとしても、それは創作された作品を十全に記述したものにはなり得ない。したがって、制作者としては、折り図や展開図の通りに折る必要はないし、むしろそこからはみ出して、そこにかかれていない要素を付け加えながら折る必要がある。制作者は折り図の行間を読むことになるのだ。
たとえば、折り図で「この点とこの点を合わせて折る」と書いてあるところで、わざとずらして折ってみる。そうすると表現の幅がぐっと広がる。ある程度複雑な作品では、たくさんの折り線が関係しあっているから、一本の線をずらそうと思うと、ほかの線もそれに応じてずらす必要が出てきて、折り紙設計の知識がないと収拾がつかなくなることもある。だから、こういうことは意外に高度な技術なのだけれど、それができるような制作者がたくさん出てくることを期待したい。このようなことは、音楽では日常的に行われていることなのだから。
紙を折らない人にとって、折り紙作品とは、第一に見るものである。であるから、作品とは、折られた紙である。
折り紙は、音楽と似ている。音楽に作曲者と演奏者がいるように、折り紙には、創作者と制作者がいる。折り紙の創作とは、折り方を考えることであり、折り紙の制作とは、その折り方にしたがって折ることである。作曲され、楽譜という形で固定された曲は、音楽作品とよばれるが、一般の人がそのような音楽作品を鑑賞することはない。音楽作品が聞かれるためには、演奏されなければならない。同じように、創作され、折り図という形で固定された折り紙は、折り紙作品とよばれるが、一般の人がそれを鑑賞することはない。一般の人は、紙を折らない人が大多数なのであるから、折られた紙を見ることによって、折り紙作品を鑑賞する。
建築の場合、1つの設計図からは1つの建物しかつくらない。ところが、音楽や折り紙では、1つの設計図からいくつもの作品を作る。それらの作品は、同じ設計図から作られているから、互いに似ているが、一方、素材が違ったり、具体化する人が違ったりするから、互いに異なってもいる。ウィトゲンシュタインならば、同じ設計図から作られた作品のあいだには、家族的類似性があるというだろう。どれがオリジナルでどれがコピーということはない。それぞれの作品が、世界に1つしかないオリジナルなのだ。折り紙作品は、創作者の作品であると同時に、制作者の作品でもある。
人によっては、折り紙において、誰が折っても同じものができること(再現性)を重要視する。しかし、それは、折り紙は誰が折っても同じものができるからつまらないという考えにつながる。私の考えでは、折り紙に再現性があるとすれば、確かに折り紙はつまらないが、折り紙に再現性はない。折る人が違えば、必ず違うものができるし、同じ人が折っても、折ったときの気の持ちようが変われば、それは必ず作品に反映される。目に見える違いが生じないとすれば、それは気持ちがこもっていないだけのこと。ロボットが折れば再現性は得られるだろうが、そんな折り紙はつまらない。折り紙作品は、人が折ってこそ、折り紙作品になる。
もっとも、コンロン・ナンカローの自動ピアノのための曲のように、ロボットにしか折れない折り紙というのがあっても、面白いかもしれない。
以前探偵団新聞で、高井さんが「あまりにも手数がかかりすぎるのでコンピューター上でしかできない折紙」について書いてましたね。
機械にしか折れない作品としては、プリーツマシーンみたいなのがでっかい紙を縦横1000等分くらいの蛇腹に折ったら、それはそれで作品と言えるかも。その機械と作業過程まで含めて。
第三者のためのお節介:「家族的類似性」という述語であるが、上記では、ひとつの設計図からつくられたという「直系の血統」が暗示されてしまうところがあるが、(家族的という言葉そのものがそれを喚起するところもある) ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」にはそのような含みはあまりない(とわたしは理解している)。グループのメンバーのすべてに共通する特徴はないが、メンバーどうしはどこかが共通しているというグループを表す述語である。
↑ 上の「述語」は「術語」の誤りです。
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折り鶴は鶴に似ていない。それでも折り鶴は鶴を指し示している。折り鶴と鶴は、社会的に結びついているからだ。
したがって、折り鶴の形を決めているのは、鶴の外形ではなく、社会的規範なのである。社会的に認められている折り鶴と鶴との結びつきが破壊されない範囲で、折り鶴の形は様々に変化しうるし、実際に変化している。首を大きく折るか小さく折るかということはもちろん、首と尾を細く折るときに、角の二等分線で折らずに垂直に折る、いわゆる韓国式折り鶴というのもある。
千羽鶴を作るという文脈では、折り鶴は、健康・平和・成功といった概念のシンボルとして機能するから、鶴と外見的に結びつくという要請はますます緩くなる。その場合、折り鶴の形については、さらに大きな振れ幅が許容されるようになる。はばたく鳥は、おそらく折り鶴から派生したもので、羽をはばたかせるという機能を強調するときは折り鶴とは別の作品だと考えられるが、はばたく鳥で千羽鶴を作っても千羽鶴と認められるだろう。また、本来は折り鶴とは関係のないふくら雀が、雌の鶴に見立てられることがあって、これで千羽鶴を作ることもある。
そうなれば、首を折らない折り鶴で千羽鶴を作るということも、当然許容範囲に含まれてくる。ところが、こういったことは、言語の変化と同じで、変化を容易に受け入れる人と、そうでない人がいる。ら抜き言葉を普通に使う人と、ら抜き言葉は正しい日本語ではないと考える人がいる。それと同じように、首を折らない千羽鶴を普通に作る人と、首を折らない折り鶴は正しい折り鶴ではないと考える人がいるのだ。
人間というのは、自分の立場を正当化したがるという習性を持っているらしい。首を折らない折り鶴を折る人たちは、首を折らないことを正当化しようとして、例えば首を折るのは不吉だという話をでっち上げる。逆に、首を折るべきだと考える人たちならば、折り鶴は鶴に似ていなければならないという話をでっち上げるかもしれない。いずれにせよ、そこには、変化を受け入れるか受け入れないかという立場の違いがあるだけなのだ。
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9月13日の記事折り鶴を鶴に見立てるということ
に続いて、いよいよ千羽鶴問題に切り込もうと思っているが、その前に、小松さんの記事なぜ動物なのか
でふれられた一つの問題に返答しておく。
私が紙を折ってできる形は、もともとの無機的な形の中に内包されていたものである。紙がもともと持っている可能性を越えた形を作ろうと思ったら、紙を切ったり貼ったりしなければならない。
といったところ、小松さんは必ずしもそうではないのでは。いわゆる『隠し折り』のように『切り紙』的な手法もあるわけですし。
と答えた。
紙を平面だと考えれば、小松さんの意見は正しい。しかし、紙は立体である。紙には厚みがあって、体積がある。紙を折ると、面積は変わるが、体積は変わらない。隠し折りをしたり、紙の内部を一値分子にして畳み込んだりしても、紙がなくなるわけではないし、紙が見えなくなるわけでもない。面積が減れば、その分厚みが増える。面積と厚みを両方減らそうとすれば、紙を切るしかない。結局、紙を折っている限り、紙がもともと持っている可能性を越えた形は作れない。
その部分が本当に不要であれば、切ってしまえばよいのである。隠し折りの結果生まれた厚みが、作品の形を損なうとすれば、折る意味はまったくない。切るべきである。切らないというルールを自分に課すのは勝手だが、そのことを他人に対して正当化しようとすれば、切らずに折ることの理由を説明できなければならない。あなたはともかく、普通の人は、折り紙に対して特別な感情を持っていないのだから。
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折り鶴は鶴に似ていない。折り鶴の後ろにある、上にとんがった部分は、足にしては上を向いているし、尻尾にしては細長すぎる。折り鶴を知らない人が、あの折り紙を見せられて、それが鶴を表しているといい当てることは、ほとんどないだろう。仮に首の長い鳥であると思ったとしても、首の長い鳥は鶴に限るわけではない。折り鷺でもよいし、折り鵜でもよかったはずだ。
折り鶴と鶴のあいだの結びつきは、社会的に決まっている。たまたまこの地球上では、この折り紙は鶴を表しているけれど、別の星では、同じ折り紙を折り鷺と呼んでいるかもしれない。折り鶴は鶴とは別のものであり、鶴とは独立に存在しているから、鶴を表す必然性はないのだ。
しかし、折り鶴は鶴に似ていないがゆえに、鶴に見立てることができる。なぜなら、AでないものをAだということが見立てであるからである。庭に置いた石を島だといい、銀杏の葉を金色の小さき鳥だというのが見立てなのである。鶴に似せようと意図してつくった鶴の模型を鶴だというのは、見立てではない。
あなたが犬の折り紙を創作したとする。それを人に見せて、「何に見える?」と聞いたら、「豚。」といわれたとする。そこで、もしあなたがそれを不満に思って、外見を犬に近づけようと努力するならば、おそらく、あなたはそれを犬に見立てようとはしていないのだろう。あなたがそれを犬に見立てたければ、「これは犬なのだ」といい張ればよいのである。つまり、その作品に「犬」という題名をつけてしまえばよい。美学者の佐々木健一がいうように、芸術作品の題名とは、「これをかくかくしかじかとして見よ」という命令なのだから。
もちろん、芸術の場合には、その見立てがおもしろいかどうかが問われることになる。見立てられる前の作品そのものがおもしろいかどうかが問われることは当然として。折り鶴を犬に見立てるのは、どう考えてもいい見立てではない。論理的には可能だが、倫理的にはやめた方がいい。
一方で、折り鶴を鶴に見立てるのはおもしろいのだから、折り鶴の外見をさらに鶴に近づけようとするのは、野暮である。それは、庭石の外見を島に近づけようとして、草を植えたり人形を置いたりすることに等しい。枯れ山水の庭でそんなことをしたら、すべてがぶち壊しになる。
あるものを何かに見立てるときは、その外見が見立ての対象とそっくりではおもしろくない。一方で、まったく関連がないというのもおもしろくない。「いわれるまでは気がつかなかったが、いわれてみればそうだ」というぐらいがちょうどいいのである。さらに、「そういわれてみればそうとしか見えない」となれば、見立てが成功したといえる。本来は結びつく必然性のないもの同士を結びつけ、その結びつきが必然であったかのように感じさせるのが、いい見立てである。
2004年9月18日追記 「AでないものをAだということが見立てである」というのは、厳密には正しくない。これでは、鶴の模型は鶴ではないから、鶴の模型を鶴に見立てることができることになる。
正確にいえば、「AでないものをAだということによって、Aと結びつく必然性がないものをAと結びつけることが見立てである」というべきだろう。鶴の模型は、鶴と結びつく必然性を持ったものとして作られたのだから、それは見立てるまでもなく鶴と結びつく。それをわざわざ鶴に見立てるのは、屋上屋を架すことになる。
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