blog.鶯梭庵

二〇〇五年 葉月 九日 火曜日

折り紙とマジック・その2

その1から続く

マジックの世界には、マニア相手の商品がある。レクチャービデオやレクチャーノートと呼ばれる技法やトリックそのもののノウハウを販売するものだ。折り紙界でも、折り方を説明したビデオや本が商品化されているが、経済規模という点で、折り紙とマジックはまったく異なっている。

デパートなどのマジック用品売り場に行けば、レクチャービデオや DVD がたくさん並んでいる。それに対し、折り紙のビデオや DVD は圧倒的に少ないし、そもそも折り紙用品売り場というものがほとんど存在しない。折り紙の場合、折り方を伝えるには本よりもビデオの方が適したメディアであり、その点では手品と同じなのだが、なぜ折り紙のビデオがこれほど少ないのか。ビデオを制作・販売するにはコストがかかり、そのコストを回収する見込みがないと考えられているからだ。

マジックのレクチャーノートは、数ページから多くて十数ページで、安くて2千円台、高いと1万円近いというから、折り紙でいえば、たとえば北條さんや神谷さんの作品の折り図が、一作品あたり2千円から5千円で売られているようなものだ。(ちなみに現代音楽の楽譜も大体こんな値段だ。三輪眞弘またりさまの楽譜は2,500円だった。)折り紙では、このような商品はいまだ存在していない。おりがみはうすから似たような商品が発売されているが、これは用紙とセットになっていて、折り図の値段は実質200円だから、比較にならない。仮に折り図だけが2千円で販売されていたとして、あるいは用紙とセットで3千円だったとして、どれだけの人が買うだろうか。

折り紙にはマニア市場が(まだ)存在していない。

その3へ続く

コメントを書くには JavaScript が必要です。

二〇〇五年 葉月 七日 日曜日

折り紙とマジック・その1

吉村達也著マジックの心理トリックを読んで、折り紙とマジックの似ているところ、違うところを考えた。

折り紙作品の折り方はマジックのタネに当たるだろう。タネさえ分かれば(あるいは買ってくれば)誰にでもできるマジックもあれば、演じるのに技法を必要とするマジックもある。折り方が分かれば誰にでも折れる折り紙もあれば、折るのに技法を必要とする折り紙もある。

吉村がいうには魅力的なマジシャンは、観客にとってタネのわかっているマジックを演じても、毎回驚きと感動をくれる。マジックの真髄はタネではなく、マジシャンの技術にあるからだ。吉村の本業は推理作家なのだが、推理小説についても小説である以上は、トリックそのものより、ストーリー展開と登場人物の会話に魅力があるかないかが、本当は大切なポイントだといっている。

折り紙を、折って楽しむものと考えるならともかく、見て楽しむものと考えるならば、以上のことは折り紙にもあてはまるだろう。つまり、折り紙の神髄は、折り方ではなく、折り手の技術にある。魅力的な折り紙アーティストならば、観客にとって折り方の分かっている折り紙を折っても、驚きと感動を与えなければならない。

「はさみを使わないでどうしてこんなものができるのか分からない」という驚きを与えるのは、価値あることには違いないが、そこに折り紙の真髄はない。紙をかくかくしかじかの折り方で折っているということが了解されていても、それでもなお「どうすればこんな風に折れるのか」と思わせなければ、魅力的な折り紙とはいえない。

もちろん、すばらしいタネを考案する人がいなければマジシャンも技法の振るいようがないのと同じように、折り紙でも、すばらしい折り方を考える人がいなければ折り手が魅力的な折り紙を作れないということはつけ加えておく。

その2へ続く。

コメントを書くには JavaScript が必要です。

二〇〇五年 睦月 九日 日曜日

折り紙にとって、幾何学とは何か

折紙学会事務局長の山口さんが、テレビ番組の制作会社から電話で問い合わせをうけたときに、「折り紙ってイクナニ学的ですよね」といわれて、なんのことだか分からなかったそうだ。こういう人が番組を作っても、ろくなことにはならないのだが、まぁそれは置いておいて、折り紙が幾何学的であることは確かだ。では、折り紙にとって、幾何学とは何なのだろうか。

以前、別の場所で、折り紙にとって幾何学は骨格だと書いたことがある。脊椎動物にとって、骨格はなくてはならないが、さりとて骨格だけでは生きてゆけない。一方、骨格なしに立派に生きている生物もいる。それと同じように、ある種の折り紙については、幾何学はなくてはならないが、幾何学だけで作品ができるわけではないし、幾何学なしに成り立っている折り紙作品もある。

幾何学が骨格ならば、肉に当たる部分が、紙という素材であり、折るという技法である。幾何学は、抽象的な平面を折ることができるが、紙を折ることはできない。しかるに、折り紙とは、紙を折ることである。だから、幾何学だけでは折り紙はできないのだ。幾何学における折り目は直線に過ぎないが、折り紙における折り目はドラマでなければならない。

折り紙的な幾何学というのもある。任意の角の3等分が折り紙でできるとかいうたぐいだ。これはこれで面白い。この分野では、不肖私も、「折り紙公理」の最後の1つを見つけた人物ということになっている。昨年9月から、MIT でも折り紙幾何学の講座が開かれており、弱冠 22才で MIT の助教授になった天才、Erik Demaine が教えている。

話は変わって、中世ヨーロッパの大学で教えられていた自由7科は、文法・論理・修辞・算術・幾何・音楽・天文の7つである。これは、日本式にいえば、読み・書き・算盤にあたる。音楽と天文が算盤に含まれているのは、音楽における音同士の関係や、天文における天体同士の関係が数学的であるからにほかならない。つまり、音楽の根底に幾何学があることが知られていて、それが教えられていたのだ。

絵画の根底にも幾何学がある。通俗的には、黄金比が云々という具合に語られることが多いが、名画といわれる絵画を幾何学的に分析してみると、実に面白い。

そう考えてみると、折り紙だけが幾何学的なのではなくて、音楽や絵画や、芸術一般が幾何学的なのだろう。芸術一般にとって、幾何学は骨格なのだ。音楽や絵画は、幾何学の骨格の上に、豊かな肉付けがなされているので、立派な芸術だと見なされている。折り紙が立派な芸術だと思ってもらえないのは、肉付けが足りないせいではないだろうか。

コメントを書くには JavaScript が必要です。

二〇〇四年 霜月 廿七日 土曜日

紙を折らない人にとって、よい折り紙作品とは何か

紙を折らない人にとって、折り紙作品とは、第一に見るものである。作品を見るときに、真っ先に目に入るのは、紙である。だから、よい折り紙作品は、よい紙を使っていなければならない。

さて、その紙は、折ってあるように見えるだろうか。折って作ったのか切り貼りして作ったのか分からないというのであれば、それを折り紙で作った意味はなかったのだ。はさみを使っていないんですよ、という説明をいちいちしなければ感心してもらえないようなら、その作品には説得力がないということだ。よい作品は、言葉をつけ足すことなく、その作品だけで人を感動させるものだから。

紙を折ってあることが分かるとして、その折りは、その紙に合っているだろうか。技術とは、表現のための手段であって、素材の持ち味を引き出すために使うのである。折り紙は、紙と格闘してそれを征服するのではなく、紙とともに共同作業をするのである。紙を折るという技法を制約だと考えている限り、素材に価値を付け加えることはできない。

コメントを書くには JavaScript が必要です。

二〇〇四年 霜月 廿三日 火曜日

誰のために折るのか・その3通りの回答

折り紙を折っている人に、誰のために折っているのかと聞いてみたとしよう。おそらく、以下の3つの回答(およびそれらの組み合わせ)がありうる。

まず、自分のために折るのか、他人のために折るかで、大きく分かれる。これは、アマチュアとプロの違いに相当する。アマチュアは、自分が楽しむために折る。プロは、他人を楽しませるために折る。

さて、料理の世界には、2種類のプロがいる。いわゆる料理人は、他人に食べてもらうために料理をする。それとは別に、いわゆる料理研究家という人たちがいて、かれらは他人が料理するためのレシピを作る。

この区別は、折り紙にも当てはまるだろう。一方では、自分が制作した折り紙を見てもらうために折り紙をする人がいて、もう一方では、自分が創作した折り紙を折ってもらうために折り紙をする人がいる。私は前者を志向しているが、前川さんや小松さんは後者を志向しているのだろう。

まとめると、誰のために折るのか、という問いに対して、自分のため、折る人のため、折らない人のため、という3つの回答がありうる。もちろん、どれが一番高級か、とか、どれが本当の折り紙か、などという問いには意味がない。どれもが折り紙であり、ただ態度の違いがあるにすぎない。

しかし、折らない人が一番多いというのに、折らない人のために折り紙をする人が少なすぎるとは思う。

コメントを書くには JavaScript が必要です。