blog.鶯梭庵

二〇〇六年 文月 七日 金曜日

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二〇〇六年 文月 五日 水曜日

折り紙の著作権を再び考える・その2

その1から続く。

続いて、福井健策著著作権とは何かの第2章。

一口に著作権と言っても、様々な権利がある。制作された折り紙作品が美術の著作物であり、折り図が図形の著作物であるということは、おそらく間違いのないところだから、ここでは、創作された折り紙作品が著作物だという仮定の上で、それぞれの権利について考えたい。

複製権は、著作物の複製をコントロールできる権利だ。創作された折り紙作品については、複製とは、具体的な作品(例えば北條さんの伐折羅大将)を真似した作品を、自分の創作作品として公表するということになるだろう。

上演権・演奏権・上映権は、折り紙の場合、公衆を対象に作品を折ることをコントロールできる権利だと考えることができる。つまり、創作者は、折り上がった作品または折っている過程を、不特定または多数に直接見せることを、コントロールできるという意味だ。こう考えれば、作品を折ること自体には著作権は及ばない。

公衆送信権・送信可能化権は、放送やインターネットでの使用をコントロールできる権利だ。これについては様々な問題があるが、今は置く。

翻訳権・翻案権には、作品のアレンジをコントロールする権利や、折り図を描くことをコントロールする権利などが含まれるだろう。逆に、折り紙以外の著作物を基にして折り紙作品を創作すると、翻案権を侵害する場合がある。

「コントロールできる」と書いたのは、これらを禁止することもできるし、一定の条件で許可することもできるという意味だ。逆に、もしも著作権がないなら、例えばクリエイティブ・コモンズのライセンスを適用したいと思っても、そのライセンスは無効だ。

その3に続く。

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二〇〇六年 文月 二日 日曜日

折り紙の著作権を再び考える・その1

先日、折れ日記著作権法第38条とYouTubeという記事にコメントをしたとき、著作権関連の本を本棚から引っ張り出したので、この機会に、ベータ版のままになっていた折り紙作品使用のガイドラインをきちんとまとめようと思った。しかし、一度にはできないので、本を少しずつ読みながら、気がついたところをメモに残しておこうと思う。

まず、福井健策著著作権とは何かの第1章まで。

著者は著作権の最大の存在理由(少なくともそのひとつ)は、芸術文化活動が活発におこなわれるための土壌を作ることだという考えを述べている。私もそれに賛成する。著作権を考えるときに、著作権法を読むというのはもちろん大切だが、それでも判断に迷ったときは、どちらが折り紙活動を活発にするのか、という基準で判断するようにしたい。

さて、創作された折り紙作品は著作物なのだろうか。創作された折り紙作品は、音楽で言えば作曲された楽曲に当たり、料理で言えばレシピに当たる。ところが、楽曲が著作物であるのに対し、レシピは著作物でない。折り紙作品が著作物であるかどうかは、著作権法を読む限りでは、どちらとも判別がつかない。

私は、創作された折り紙作品は著作物だと考えたい。なぜなら、創作者に著作権を認めた方が、折り紙活動が活発になると考えるからだ。

しかし、そうだとしても、すべての折り紙作品が著作物になるわけではない。

まず、他人の作品を真似して創作した作品は、著作物ではなく、他人の著作物の複製となる。ただし、他人の作品の中のアイディアや作風を真似するのは自由だ。例えば「人物を折るときに、紙の上辺中央を頭にし、四隅をそれぞれ手足にする」というのはアイディアだから、自由に真似してよい。そのアイディアを用い、例えば北條高史さん風の人物像を創作するのも自由だ。しかし、具体的な作品、例えば北條さんの伐折羅大将を真似して創作した場合、それは北條さんの著作物の複製となる。

また、どこでも見かけるようなありふれた表現は著作物ではない。作品の中の一部分の表現がありふれたものである場合、その部分だけを取り出したときには著作物にはならない。動物の顔や脚を折るときの、よくあるパターンがいくつかあるけれど、それらは著作物にはならないだろう。

さらに、表現に創作性がない場合、つまり、あるアイディアから、ほとんど一種類の表現しか出てこない場合、それはアイディアであり、著作物ではない。おそらく、五本指の折り方は著作物ではないだろう。では、どこまでがアイディアでどこまでが表現なのか。この線引きは難しい。

なお、非絵画的キャラクターは著作物ではないと考えられているが、絵画的なキャラクターは美術の著作物である。したがって、三毛猫ホームズの折り紙を創作すれば、その折り紙作品はおそらく創作者の著作物になるが、ドラえもんの折り紙を創作した場合、それを公表するには、ドラえもんの著作権者(小学館?)の許諾が必要となる。ただし、「ドラえもん」という名前は著作物ではないから、ドラえもんに全く似ていない折り紙作品に「ドラえもん」という題名を付けるのは問題ないと考えられる。

楽曲が著作物になるためには、楽譜に記録される必要はない。同様に、折り紙作品が著作物になるためには、折り図などに記録される必要はない。

その2に続く。

コメント (4件)

今まで慣例的に許されてきた「他人が創作した作品を折って公開」の自由を簡単にキープすること、また作品の改変・改造を原作者の意思で簡単に自由にするための方法が重要な課題かと思われます。

慣例的な折紙のあり方を再現した折紙向けフリーライセンスのようなものがあると便利だと常々思います。

他人が創作した作品を折ることについては、複製ではなく上演に相当すると考えることによって、現行の著作権法を折り紙の慣例にしたがって解釈することが可能だと考えています。

ただし、私が何を書いたからといって、法的な権威を持つわけではありませんから、現実問題として何かを自由にするというのは、私の力量を超えると考えます。そのようなことを目標にはしません。

なお、今後の予定として、クリエイティブ・コモンズのライセンスを折り紙に適用することについても考えたいと思っています。

音楽からの類推ですね。その解釈が成り立つと楽ではありますが…。しかし、音楽の上演でもその結果を録音する行為は複製と見なされますし、建築の場合設計図を元に実物を作ることが複製と見なされますから、折紙も出来上がりの形が残ればそれは複製物と解釈されるのではないかと思います。これも類推でしかないですが。


そういえば渡辺大さんがクリエイティブ・コモンズを折り紙に使っていました。こういう場合「作品を折る」とか「折り図を描く」という行為が著作権法的にどう解釈されるかが明確になっていることが重要ですね。

「正しい」解釈を決めることができるのは、裁判所だけです。私は、自分の解釈が法的に正しいというつもりはありませんし、唯一の解釈だというつもりもありません。私の目標は、折り紙文化活動にとって最もよい解釈を探すことです。

クリエイティブ・コモンズについては、タトさんのおっしゃる通りです。

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二〇〇六年 水無月 廿一日 水曜日

「折り紙読本」の読み方

origami-l で、吉澤章さんの名著折り紙読本 Iについて、どう読むのかという話題があった。どう読む、といっても、内容ではなく、題名をどう発音するのかという話。

「読本」は、単独では「とくほん」と読む。しかし、前に別の言葉がくっついたとき、濁音化して「どくほん」になることがある。東京大学附属図書館 OPAC をのぞいてみると、カステラ読本は「とくほん」だが、ベルクソン読本は「どくほん」だ。

では、折り紙読本はどうか。残念ながら、東京大学にこの本は所蔵されていなかった。国立国会図書館 NDL-OPAC では、検索結果画面にふりがなが表示されないが、「おりがみとくほん」で検索しても何も見つからず、「おりがみどくほん」で検索すると折り紙読本が引っかかる。ということは、「どくほん」と読むのが正しいということになる。

ところが、デビッド・リスターさんの証言によると、吉澤さん自身は「とくほん」といっていたそうだ。著者と出版社の見解が相違しているということか。私個人は、折り紙人として、著者の意見を尊重して「とくほん」と読むことにしたい。

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二〇〇六年 水無月 廿日 火曜日

折り紙サイトが文字化けすると・・・

折紙探偵団と EUC-JP で書いたものを Shift_JIS として読もうとすると「ダサ貪オト蠹ト」になるというのは、かつて吉野一生さんが見つけたこと。「ダサ」はもちろん「ダサい」、「貪(ドン)」は「むさぼる」、「蠹(ト)」は「むしばむ」の意味。

また、折り紙と UTF-8 で書いたものを EUC-JP として読もうとすると、「膣」となる。これではうっかり子供に見せられない。

文字化けするにしても、もう少しましな文字に化けてくれてもよさそうなものだ。折り紙関係者は特に、文字化けにはご用心。


2006年6月21日追記 「探偵団」と UTF-8 で書いたものを Shift_JIS として読もうとすると「謗「蛛オ蝗」」となる。昆虫戦争が起こることは宿命づけられていたようだ。

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