二〇〇六年 文月 廿三日 日曜日
4OSME 参加申し込み始まる
第4回折り紙の科学・数学・教育国際会議の参加申し込み受け付けが始まった。8月15日までに “Early Bird Package” に申し込むと、参加費が割り引きになる。
二〇〇六年 文月 廿二日 土曜日
折り紙の著作権を再び考える・その5
その4から続く。
続いて、岡本薫著著作権の考え方の第3章。
岡本によれば、著作隣接権の本質は業界保護
だそうだ。現実を見ると、著作隣接権は、政治力の強い業界に付与されている。そう考えると、折り紙業界の政治力はなきに等しいから、折り紙の著作隣接権が法律に明文化されることは、遠い夢なのかもしれない。
しかし、音楽の演奏を考えてみれば、例えば私はプロの歌手ではないが、私が自転車に乗りながら鼻歌を歌えば、それも演奏であって、私に著作隣接権がある。つまり、業界に属していなくとも、著作隣接権を持つことはできる。音楽業界の政治力のおこぼれにあずかっているということなのかもしれないが、そうだとすれば、折り紙がそのおこぼれにあずかってもよかろう。私としては、音楽の演奏者に与えられているものと同じ程度の著作隣接権が、折り紙の制作者にも付与されると考えたい。
さて、音楽などの実演者の場合、著作隣接権によって保護されるのは、演技そのものである。折り紙の場合、パフォーマンスとしての折り紙作品の制作や、折り紙作品の折り方の講習がこれにあてはまるだろう。その結果でき上がった作品については、著作隣接権があると考えることはできないだろうが、創作された作品を翻案した美術の著作物(二次的著作物)と考えることができるだろう。
その6に続く。
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二〇〇六年 文月 十七日 月曜日
折り紙の著作権を再び考える・その4
その3から続く。
次に、岡本薫著著作権の考え方の第2章。
無断で「公衆に伝達されない権利」は、実演・上映・放送等に細分化されている。私は、折り紙の制作もここに含まれると考えたいのだが、現行の著作権法では、折り紙の制作についての記述はもちろんないから、その解釈が成り立つ保証がない。とは言え、創作者の権利、制作者の権利、および利用者の権利の均衡を考えると、この解釈がもっとも妥当だろうと考える。折り紙作品の制作が作品の複製にあたるとすると、以前書いたように利用者の権利が実態に合わないほど制限されるのに加え、制作者に著作隣接権が認められないことになる。
そうすると、「公衆への伝達」には、制作した作品を公衆に見せることが含まれるだろう。創作者の立場から言えば、制作した作品の写真を公衆に見せることも含まれると考えたい。自分が創作した作品の写真が営利目的で利用された場合、制作者と写真家に権利があっても、創作者に何の権利もないというのは、納得しがたい。
一方、利用者の立場から言えば、自分で作った作品をお店のショーウィンドウにかざったり、写真をウェブサイトに掲載したりするのは、慣習的に行われていることだから、このようなことは認めたいところだ。喫茶店の店頭でテレビを見せることも、公衆への伝達にあたるが、例外的に認められているので、それと同じように認めることができると考えられるだろう。
その5に続く。
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二〇〇六年 文月 十二日 水曜日
Exploring Origami
Green Fuse Films が、Exploring Origami というドキュメンタリー映画を制作している。撮影は終了して、現在編集中だそうだ。予告編が見れる。
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二〇〇六年 文月 十一日 火曜日
折り紙の著作権を再び考える・その3
その2から続く。
続いて、福井健策著著作権とは何かの第3章。
折り紙では、偶然よく似た作品が創作されることがある。その場合でも、後から創作した人が、前に創作された作品を見たことがなければ、仮に折り方が全く同じであっても、複製とはみなされない。両者はそれぞれ独立した著作物となる。
では、前の作品を見たことがあるかないか、いかにして証明するのか。実際、証明のしようはないわけで、仮に裁判で争われることになれば、状況証拠に基づき常識的な判断を下すことになる。
例えば、北條さんの伐折羅大将
は折紙探偵団に掲載されており、私はその雑誌を購読しているから、私が北條さんの伐折羅大将
によく似た作品を創作したら、いくら「この作品は見たことがない」と言い張っても通らない。私が北條さんの作品を見て真似をしたと判断されることになる。
しかし、私自身、子どもの頃に折ったことのある作品や、国内外のどこかのコンベンションで見かけただけの作品など、すべて覚えているわけではない。自分では真似をしたつもりがなくとも、意識下にその記憶があって、無意識のうちに真似をしてしまうかもしれない。そのように、本人に真似をしたという意識がなくても、著作権侵害が成立するという判例が、アメリカにあるそうだ。
それではおちおち創作ができないが、アイディアや作風は真似をしてもよいのだから、多少似ていたとしても、私の伐折羅大将が私の著作物になることもある。同じ題材を、同じアイディアを用い、同じ作風で創作すれば、似たものができるのは当然だ。とは言え、あまりにも似ていれば複製であり、だいぶ似ていれば翻案であるわけで、どこで線を引けばよいかという問題が生じる。
これは理屈では片づけられない大問題で、この本にも裁判になった例がいくつか挙げられているが、人によって意見が分かれるようなものばかりだ。個別の事例に対する議論を積み重ねてゆくほかない。その場合でも、判断の基準となるのは、どのようなルールが折り紙文化活動を盛んにするかということだ。あまりルールがゆるければ、創作家は、せっかく新作を作っても誰かに盗作されてしまうという意識を持つだろう。逆に、あまりルールがきつければ、創作家は、いつ誰から訴えられるか分からないという意識を持つだろう。どちらにしても、創作などやっていられないということになる。その中庸を見定める必要がある。
その4に続く。
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