以前、梅田望夫氏のブログ英語で読むITトレンドから、インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞という記事を紹介したことがある。(その後、同ブログで逆に紹介された。)
最近、同氏のウェブ進化論
で読んだのだが、羽生氏は、大渋滞を抜け出す方法として聴覚や触覚など人間ならではの感覚を総動員して、コンピュータ制御では絶対にできない加工をやってのける旋盤名人の技術のようなもの
に興味を持っているのだそうだ。これもまた、折り紙にあてはまると思う。
折り紙において、インターネットによって高速道路が敷かれたが、それ以前には、本という国道があった。高速道路と国道との違いは、スピードがどれだけ出せるかということであって、行き着く先に渋滞があることには変わりがない。国道であれば、渋滞地点までたどり着くまでに一生の大半を費やしてしまうかもしれないが、高速道路であれば数年で渋滞地点に行ける。本がインターネットに替わったことで、何が変わったかといえば、渋滞地点にたどり着くのが容易になったこと、そして、そのために、渋滞が大渋滞になったことである。
では、その大渋滞を抜けるにはどうすればよいかといえば、人間ならではの感覚を総動員して、コンピュータにはできないことをすればよいのである。折り紙の場合は、実際に紙を折るなり、折られた紙としての作品を見るなりして、素材としての紙と技法としての折りとを、五感の全てで体感することになる。結局のところ、折り紙とは紙を折ることなのだから、現実の紙と現実の折りとにこだわることによってしか、先に進むことはできない。
このようなことは、折り図にも展開図にも描けないし、写真で見せることもできない。高速道路であろうと、国道であろうと、そこで見ることのできるものは、折り図であったり展開図であったり写真であったりする。しかし、それは干からびた魚でしかない。デジタルであろうとアナログであろうと関係はない。折り紙は、メディアに載ってしまえば、干からびてしまう。干からびた魚を見ているだけでは、遅かれ早かれ行き詰まることになり、そこで渋滞が発生する。渋滞を抜けたいと思ったら、海に潜ればよいのだ。本もコンピュータも捨てて、紙を手に取ればよい。本物の魚はそこにいるのだから。
ユニット折り紙のユニットには、必ずと言っていいほど、ポケットと継ぎ手があって、継ぎ手をポケットにさし込むだけで、糊を使わずに組めるようになっている。折り紙一般について、はさみを使うことが好ましくないと考えられているように、ユニット折り紙では、糊を使うことは好ましくないと考えられているようだ。
糊を使わずにユニット同士を固定しようとすれば、摩擦力によって固定することになる。しかし、紙と紙を重ねただけでは、十分な摩擦力は生じない。ユニット折り紙が糊を使わずに形を保てるのは、紙が折られているからにほかならない。ユニット折り紙では、十分な摩擦力が得られるように紙を折る。つまり、紙を組むために折るということになる。
しかし、それだけでは、折りが手段にとどまっている。しっかり組めるユニットができたとして、それを組んで何かを作ったとしても、造形の主な手段が組みであって、折りはユニット同士を固定するという副次的な効果しか持たないとすれば、ユニット同士を糊付けしても、結局同じことではないか。造形の主な手段は相変わらず組みであって、ユニット同士を固定する手段として糊を副次的に使うわけだ。ユニット折り紙における折りが、糊と置き換えることができるようなものであって、造形の主眼が組みにあるのであれば、組みの手段が折りであろうと糊であろうと、どちらでもかまわない。その場合、糊を使わずに折るだけで組めるというのは、折り紙の中から見れば大事なことのように思えるかもしれないが、折り紙の外から見れば、単なる自己満足でしかない。折ることに必然性がなければ、折る意味はない。
吉澤章は、折り紙読本 Iの中で、貼り合わせたり組み合わせたりしてからはじめて個性の出るものは、複合形にはちがいないが折り紙とはいいがたいので、そういうものはモザイクであり、単なる紙細工ではないかと思います。
と言っている。私もそれに賛成する。ユニット折り紙が、糊を使わず、折りだけで組めるとしても、それは折り紙であるための十分条件にはならない。
では、ユニット折り紙が折り紙であるためには、何が必要なのか。そもそも折り紙とは、はさみや糊を使ってもよいが、折らなければできない形、はさみと糊だけでは作れない形を目指すべきものだ。だから、ユニット折り紙における折りは、第一に造形の手段であるべきだ。折りがユニットを固定できるかどうかは、それに比べれば重要ではない。紙を折ることではじめて可能な造形があって、それがたまたま同じユニットを組み合わせて作るときに、ユニット折り紙と呼ばれるのである。したがって、糊を使わなければ固定できないユニット折り紙というものもあってよい。
例えば、Richard Sweeney の Icosahedron や Dodecahedron は、おそらく糊を使っていると思うが、それでもやはり素晴らしいユニット折り紙だと思う。
私の折り紙サイト K's Origami(日本語版)を、10か月ぶり(!)に更新した。写真の縦横比が変わっているのは、カメラを替えたから。やっと Sigma SD10 でちゃんとした写真が撮れるようになった。
今回、車襞折り
という項目を追加した。このページの2点は、今年1月21日に銀座の Tanglewood でおこなったPli selon pliの表題作。(雪の中を見に来てくださった方々には、本当に感謝します。)なお、この題名は、ピエール・ブーレーズが作曲した同名の曲から拝借した。もともとはマラルメの詩の一節だ。
実は、両作品とも、紙の素材も同じ、紙の大きさも同じ、折り方も全く同じだが、厚さと色だけが違う。Nº 1 は中様鳥の子、Nº 2 は雁皮の薄様を藤色に染めてある。それだけで、完成形がこれだけ変わる。折り紙は、こういうところが面白いと思う。
与えられた形を不切正方形一枚で折るというのは、数学パズルとしては面白いし、私も数学パズルは好きだが、折り紙はもっと面白いものだと思う。折り紙は紙を折るものだ。紙は植物の繊維からできている。繊維と繊維を結びつけているのは、水分子の水素結合だ。だから、吉澤章は、折る前に紙の中の水に向かって手を合わせた。これが本当の折り紙だと思う。
パウル・クレーの芸術とは目に見えるものを描くことではなく、目に見えるようにすることだ
という言葉を借りるなら、折り紙とは、目に見えるものを折ることではなく、目に見えるようにすることだ。
折り鶴は間違いなく日本で生まれたのだろうが、折り鶴を折るときに、何も考えずに市販の折り紙用紙を使っていながら、「折り紙は日本の文化だ」などというのは、やめた方がいい。折り紙用紙のほとんどは洋紙ではないか。
日本の折り紙は、和紙文化の中から生まれたものだ。江戸時代に日本で生まれた折り紙作品の中には、洋紙でうまく折れないために、現代に伝承されていないものがある。洋紙の「折り紙用紙」が広く使われるようになったために、大正時代以降の折り紙は大きな変化を余儀なくされた。
洋紙と和紙の違いには、敏感になるべきだ。折り鶴を洋紙で折るときに、子供が遊びで折るのならどう折っても構わないが、本格的に折ろうとするなら、江戸時代に和紙で折っていた折り方と同じように折って済ませられるわけがない。和紙で折るときの折り方と、洋紙で折るときの折り方は、おのずから違ってくるはずだ。それは、微妙な違いかもしれないし、はっきり分かる違いかもしれない。羽ばたく鳥や、いわゆる韓国式折り鶴は、折り鶴を洋紙で折ろうとしたときにできたものであろうと私は考えている。
現在では、折り紙には洋紙を使うことが多い。それに加えて、現在伝承されている作品には、ヨーロッパで生まれて明治時代以降に日本に伝わったものが少なくない。ヨーロッパにも折り紙の伝統があるということは、あまり知られていないが、疑いようのない事実である。折り紙というのは、日本の文化ではなく、日本文化と西洋文化の雑種である。(中国や韓国に、日本やヨーロッパと同じぐらい古い折り紙の伝統があるかどうかは、私は寡聞にして知らない。)
日本人が折り紙を本格的に折ろうとしたときに求められることは、現代の折り紙に流れる日本の血と西洋の血の両方を意識した上で、日本人としてどう折り紙に向き合うかということを考えることであろう。
その2から続く。
吉村によれば、マジックは技術や論理トリックを用いながら、不可能を可能にみせる高度な心理ショー
だ。すばらしいマジシャンは、手の動きやしゃべりが自然なので、観客はタネの存在に気がつかない。目の前で起きた現象が不可能なはずだと感じられる。不可能なはずのことが実際に起きるので、驚くわけだ。一方、下手なマジシャンは、どこかでぎこちない動きをするので、タネの内容は分からないにせよ、何か変なことをやっているということが分かってしまう。そうすると、目の前で起きている現象も不可能なことではないと思えてしまう。
では、折り紙は何をみせようとしているのか。うまい折り手と下手な折り手の差は何か。
折り紙にも「驚かせる」という要素がある。つまり、「1枚の紙からはさみを使わずにこんな複雑なものが作れるとは信じられない」と驚かせることがある。しかし、その驚きは、決してマジックを超えることがない。というのも、不可能なはずの現象といったところで、はさみを使えば可能であることは明らかであり、はさみを使うというのは珍しいことでもないし、難しいことでもないからだ。一方、マジックの場合、マジシャンが超能力者でもない限り、どのようにして不可能が可能になるのか分からない。そして、超能力者というのは、この世に存在しないのだ。
それならば、折り紙で、人を驚かせるのを目標にするのは、やめた方がよい。折り紙での驚きはマジックの驚きにかなわないのだし、マジックの驚きにしたところで、その1で述べたように、マジックの神髄というわけでもない。人を驚かせるのがうまい折り手だと考えると、折り紙が取るに足らないものになってしまう。
折り紙は、人を感心させるのではなく、人を感動させることを目指さなければならない。
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