折山さんの記事創作者の権利について
を読んで、おおまかにはその通りだと思うのだが、1つ引っかかっていることがある。創作された折り紙作品そのものが著作物であるのかどうかということだ。
折り紙と著作権・私見
で書いたように、創作された折り紙作品が著作物でない可能性がある。その一方、最近 OrigamiUSA が弁護士に聞いたところでは、創作された折り紙作品は著作物だという見解を得たそうである。
この弁護士の見解については、現在ロバート・ラングがまとめている最中とのことで、それが発表されるまでは、はっきりしたことを書くのは控えたいのだが、どうやら、音楽と料理の違いとして、私が見落としていたことがあったようだ。料理は実用であるのに対し、音楽は芸術だ。実用品は著作物ではないが、芸術作品は著作物だ。ゆえに、料理のレシピは著作物ではなく、音楽の楽曲は著作物だ。
もちろん、実用と芸術との違いというのは、はっきり区別できるようなものではない。実用的な音楽もあれば、芸術的な料理もある。しかし、音楽はどちらかというと芸術で、料理はどちらかというと実用だ、ということならいえるだろう。そう考えると、折り紙は、どちらかというと芸術といえると思う。それなら、創作された折り紙作品も、音楽の楽曲と同じく、著作物であっておかしくはない。
ひとたび、創作された折り紙作品が著作物だといえれば、後は折山さんが書いた通り、現行の著作権法だけで解決できるかもしれない。まだ詳しく検討していないので分からないが。
1つ気になっているのは、アメリカでは固定されていないものは著作物として認められないはずだということだ。ひょっとすると、折り図などの形で固定された折り紙作品に限って著作物になるということかもしれない。そのあたりはラングさんのまとめを待ちたい。
私が折山紙太郎さんに向けて書いた記事に対して、小松さんが折り工程は折り紙作品の二次的著作物(派生作品)と考えるのが妥当だと思う。
という見解を表明したところ、折山さんは、著作権法と関連付けると、議論がゆがんでしまうと思います。
と反論している。結論を先にいえば、私も折山さんと同意見。
折り工程は、音楽に例えれば、運指法など、楽器の奏法にあたるのだろう。ところが、楽器の奏法は著作物ではない。以前にも書いたが、著作権法における「表現」というのは、形式的なもので、内容には関わらない。折り図は折り工程を表現しているから、著作物だが、折り工程そのものは著作物にはならない。
折り手順(折り工程)も折り紙の表現になりうる
ということについては、私も賛成する。しかし、最近の私は、個人的に、そのような表現には興味がないということは告白しておく。
折山紙太郎の日記というサイトに、折り紙の著作権についての記事がいくつか書かれている。これについて、考えるところを書いてみたい。
展開図と著作権(?)と特許権(?)
について。
創作された折り紙作品は、特定の折り手順と同一視できるものではない。分かりやすい例でいえば、折り鶴を折るとき、初めに三角に折る折り方、四角に折る折り方、正方基本形の折り目をつけてから畳む折り方などがあるが、どれも「折り鶴」という同じ作品を折っている。
折り鶴の折り図を見ながら折り鶴を折った場合と、折り鶴の展開図を見ながら折り鶴を折った場合とでは、どちらも「折り鶴」という同じ作品を折ったのである。だから、折り図と展開図はどちらも、折り方としての折り紙作品を表現したものだといえる。折り図と展開図との違いは、折り図は折り手順を表現しているが、展開図は折り手順を表現していないということだろう。しかし、折り手順は折り紙作品ではない。
折り手順はアイディアであり、著作物ではない。特許の対象だ。しかし、折り図に表現されている「折り方」は、折り手順とは違う。それは展開図でも表現されうるものだ。
折紙と著作権は相性が悪いのではないかと疑ってみる
について。
折り紙は誰でも楽しめる。個人の楽しみのために折るのは自由だ。しかし、ウェブサイトに投稿することは、誰でも楽しめるわけではない。ウェブサイトは公共の場であり、開放的な
ふるまいは許されない。
自分が折った作品の写真をウェブサイトに投稿する場合、自分が折っている作品の題名と創作者くらい知っているべきだし、知らなければ、知る努力をするのが当然だと思う。作品を一般に公開しようというときには、それなりの責任を負わなければならないのだし、責任を負うのがいやなら、公開しなければいいだけの話だ。
ただし、自分が折った作品の写真を公開するときに、折り図の出典を書く必要はないと思う。折り図を複製しているわけではないからだ。伝承作品なら、子供のころに折り方を教わったから特定の出典がないということも多い。しかし、川崎敏和のバラなど、いくつかのバリエーションがあって、どの折り図に依拠したのかが重要になる場合には、当然出典を意識する必要がある。
著作権は必然か?
について。
あるものが著作物であるために、独創性は必要ない。必要なものは創作性であり、創作性とは、作者の個性が表現されているということである。それが独創的であるかどうかは、著作権とは関係がない。
昨日の記事折り紙と著作権・私見
で、創作された折り紙作品は著作物ではないと結論したが、それはあくまで法律上の話で、他人が創作した作品を無断で利用することが倫理的に許されるかどうかは別問題。
具体的にどのようなことをするべきでないかということについては、現在日本折紙学会でガイドラインを製作中なので、そちらを参照してほしい。
1月27日の記事折り紙の著作権を考えるための準備
をふまえて、いろいろ考えてみたが、どうも私には、音楽と料理とのあいだに内在的な違いがあるとは思えない。
作曲された音楽も、考え出された料理も、ある意味で指示の集合体といえる。「こういう風にすればこういうものができますよ」というわけだ。それは楽譜として出版されたり、テレビで放映されたりして、固定されることもあるが、固定されないこともある。その指示自体を観賞の対象として、指示に従うことを楽しむこともある。つまり、音楽でいえばカラオケで歌うことがあるし、料理を自分で作ることもある。しかし、指示そのものではなく、指示に従って作られたものを観賞することもあって、優れた制作者であれば、その指示に表現を加え、芸術作品を作ることができる。
これは、折り紙にもそっくりそのままあてはまる。
音楽と料理の違いとして、私に考えつくのは、次の2点だ。第1に、音楽は、芸術の女神ムーサの名を冠した、芸術の中の芸術であるのに対し、料理が芸術だと考える人は少数派だ。だから、音楽は絵画や文学と並び立つが、料理はそうではない。第2に、音楽では、著作権を管理する団体があって、著作物としての音楽を利用するための社会的システムが存在しているが、料理にはそういうシステムがない。
そこで、折り紙が音楽と料理のどちらに近いかといえば、明らかに料理に近い。とすれば、創作された折り紙作品は著作物ではないという見解に首肯せざるを得ないと思う。
コメントを書くには JavaScript が必要です。