blog.鶯梭庵

二〇〇五年 葉月 七日 日曜日

折り紙とマジック・その1

吉村達也著マジックの心理トリックを読んで、折り紙とマジックの似ているところ、違うところを考えた。

折り紙作品の折り方はマジックのタネに当たるだろう。タネさえ分かれば(あるいは買ってくれば)誰にでもできるマジックもあれば、演じるのに技法を必要とするマジックもある。折り方が分かれば誰にでも折れる折り紙もあれば、折るのに技法を必要とする折り紙もある。

吉村がいうには魅力的なマジシャンは、観客にとってタネのわかっているマジックを演じても、毎回驚きと感動をくれる。マジックの真髄はタネではなく、マジシャンの技術にあるからだ。吉村の本業は推理作家なのだが、推理小説についても小説である以上は、トリックそのものより、ストーリー展開と登場人物の会話に魅力があるかないかが、本当は大切なポイントだといっている。

折り紙を、折って楽しむものと考えるならともかく、見て楽しむものと考えるならば、以上のことは折り紙にもあてはまるだろう。つまり、折り紙の神髄は、折り方ではなく、折り手の技術にある。魅力的な折り紙アーティストならば、観客にとって折り方の分かっている折り紙を折っても、驚きと感動を与えなければならない。

「はさみを使わないでどうしてこんなものができるのか分からない」という驚きを与えるのは、価値あることには違いないが、そこに折り紙の真髄はない。紙をかくかくしかじかの折り方で折っているということが了解されていても、それでもなお「どうすればこんな風に折れるのか」と思わせなければ、魅力的な折り紙とはいえない。

もちろん、すばらしいタネを考案する人がいなければマジシャンも技法の振るいようがないのと同じように、折り紙でも、すばらしい折り方を考える人がいなければ折り手が魅力的な折り紙を作れないということはつけ加えておく。

その2へ続く。

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二〇〇五年 文月 四日 月曜日

折り紙はなぜ「折り紙」なのか

今日は成田からフランクフルト経由でザルツブルクに向かった。

フランクフルト行きの飛行機の中で、黒川伊保子怪獣の名はなぜガギグゲゴなのかを読んだ。日本語の音が潜在意識に与える印象について述べているのだが、この研究を「折り紙」とその古い言い方である「折り据」「折り形」「折り物」にそれぞれ当てはめてみたら、面白かった。

この本によると、「お」は存在感、「り」は透明感を感じさせる。「す」は健やかさ、「え」は奥ゆかしさを感じさせるので、「折り据」は上品な感じがする。「か」と「た」はどちらも固さ・強さを感じさせるから、「折り形」はお堅いイメージになる。「も」は豊満さ、「の」はナイーブさを感じさせるので、「折り物」ではオンナコドモのするものというイメージになる。いずれも限定的な訴求力しか持たないのに対して、「が」は男性的な興奮、「み」は親密感を感じさせるので、「折り紙」は老若男女に強くアピールする。

そう考えると、4つの言葉の中で「折り紙」が残ったというのは、単に音の響きがよかったせいだと思えてくる。

なお、“origami” が国際語になったのは、リリアン・オッペンハイマーさんがこの言葉の響きを気に入って広めたからだ。日本語の音が持つこのような効果は、外国人にもある程度あてはまるのだろう。

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