blog.鶯梭庵

二〇〇六年 文月 二日 日曜日

折り紙の著作権を再び考える・その1

先日、折れ日記著作権法第38条とYouTubeという記事にコメントをしたとき、著作権関連の本を本棚から引っ張り出したので、この機会に、ベータ版のままになっていた折り紙作品使用のガイドラインをきちんとまとめようと思った。しかし、一度にはできないので、本を少しずつ読みながら、気がついたところをメモに残しておこうと思う。

まず、福井健策著著作権とは何かの第1章まで。

著者は著作権の最大の存在理由(少なくともそのひとつ)は、芸術文化活動が活発におこなわれるための土壌を作ることだという考えを述べている。私もそれに賛成する。著作権を考えるときに、著作権法を読むというのはもちろん大切だが、それでも判断に迷ったときは、どちらが折り紙活動を活発にするのか、という基準で判断するようにしたい。

さて、創作された折り紙作品は著作物なのだろうか。創作された折り紙作品は、音楽で言えば作曲された楽曲に当たり、料理で言えばレシピに当たる。ところが、楽曲が著作物であるのに対し、レシピは著作物でない。折り紙作品が著作物であるかどうかは、著作権法を読む限りでは、どちらとも判別がつかない。

私は、創作された折り紙作品は著作物だと考えたい。なぜなら、創作者に著作権を認めた方が、折り紙活動が活発になると考えるからだ。

しかし、そうだとしても、すべての折り紙作品が著作物になるわけではない。

まず、他人の作品を真似して創作した作品は、著作物ではなく、他人の著作物の複製となる。ただし、他人の作品の中のアイディアや作風を真似するのは自由だ。例えば「人物を折るときに、紙の上辺中央を頭にし、四隅をそれぞれ手足にする」というのはアイディアだから、自由に真似してよい。そのアイディアを用い、例えば北條高史さん風の人物像を創作するのも自由だ。しかし、具体的な作品、例えば北條さんの伐折羅大将を真似して創作した場合、それは北條さんの著作物の複製となる。

また、どこでも見かけるようなありふれた表現は著作物ではない。作品の中の一部分の表現がありふれたものである場合、その部分だけを取り出したときには著作物にはならない。動物の顔や脚を折るときの、よくあるパターンがいくつかあるけれど、それらは著作物にはならないだろう。

さらに、表現に創作性がない場合、つまり、あるアイディアから、ほとんど一種類の表現しか出てこない場合、それはアイディアであり、著作物ではない。おそらく、五本指の折り方は著作物ではないだろう。では、どこまでがアイディアでどこまでが表現なのか。この線引きは難しい。

なお、非絵画的キャラクターは著作物ではないと考えられているが、絵画的なキャラクターは美術の著作物である。したがって、三毛猫ホームズの折り紙を創作すれば、その折り紙作品はおそらく創作者の著作物になるが、ドラえもんの折り紙を創作した場合、それを公表するには、ドラえもんの著作権者(小学館?)の許諾が必要となる。ただし、「ドラえもん」という名前は著作物ではないから、ドラえもんに全く似ていない折り紙作品に「ドラえもん」という題名を付けるのは問題ないと考えられる。

楽曲が著作物になるためには、楽譜に記録される必要はない。同様に、折り紙作品が著作物になるためには、折り図などに記録される必要はない。

その2に続く。

コメント (4件)

今まで慣例的に許されてきた「他人が創作した作品を折って公開」の自由を簡単にキープすること、また作品の改変・改造を原作者の意思で簡単に自由にするための方法が重要な課題かと思われます。

慣例的な折紙のあり方を再現した折紙向けフリーライセンスのようなものがあると便利だと常々思います。

他人が創作した作品を折ることについては、複製ではなく上演に相当すると考えることによって、現行の著作権法を折り紙の慣例にしたがって解釈することが可能だと考えています。

ただし、私が何を書いたからといって、法的な権威を持つわけではありませんから、現実問題として何かを自由にするというのは、私の力量を超えると考えます。そのようなことを目標にはしません。

なお、今後の予定として、クリエイティブ・コモンズのライセンスを折り紙に適用することについても考えたいと思っています。

音楽からの類推ですね。その解釈が成り立つと楽ではありますが…。しかし、音楽の上演でもその結果を録音する行為は複製と見なされますし、建築の場合設計図を元に実物を作ることが複製と見なされますから、折紙も出来上がりの形が残ればそれは複製物と解釈されるのではないかと思います。これも類推でしかないですが。


そういえば渡辺大さんがクリエイティブ・コモンズを折り紙に使っていました。こういう場合「作品を折る」とか「折り図を描く」という行為が著作権法的にどう解釈されるかが明確になっていることが重要ですね。

「正しい」解釈を決めることができるのは、裁判所だけです。私は、自分の解釈が法的に正しいというつもりはありませんし、唯一の解釈だというつもりもありません。私の目標は、折り紙文化活動にとって最もよい解釈を探すことです。

クリエイティブ・コモンズについては、タトさんのおっしゃる通りです。

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二〇〇六年 皐月 十四日 日曜日

高速道路論の続き

以前、梅田望夫氏のブログ英語で読むITトレンドから、インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞という記事を紹介したことがある。(その後、同ブログで逆に紹介された。)

最近、同氏のウェブ進化論で読んだのだが、羽生氏は、大渋滞を抜け出す方法として聴覚や触覚など人間ならではの感覚を総動員して、コンピュータ制御では絶対にできない加工をやってのける旋盤名人の技術のようなものに興味を持っているのだそうだ。これもまた、折り紙にあてはまると思う。

折り紙において、インターネットによって高速道路が敷かれたが、それ以前には、本という国道があった。高速道路と国道との違いは、スピードがどれだけ出せるかということであって、行き着く先に渋滞があることには変わりがない。国道であれば、渋滞地点までたどり着くまでに一生の大半を費やしてしまうかもしれないが、高速道路であれば数年で渋滞地点に行ける。本がインターネットに替わったことで、何が変わったかといえば、渋滞地点にたどり着くのが容易になったこと、そして、そのために、渋滞が大渋滞になったことである。

では、その大渋滞を抜けるにはどうすればよいかといえば、人間ならではの感覚を総動員して、コンピュータにはできないことをすればよいのである。折り紙の場合は、実際に紙を折るなり、折られた紙としての作品を見るなりして、素材としての紙と技法としての折りとを、五感の全てで体感することになる。結局のところ、折り紙とは紙を折ることなのだから、現実の紙と現実の折りとにこだわることによってしか、先に進むことはできない。

このようなことは、折り図にも展開図にも描けないし、写真で見せることもできない。高速道路であろうと、国道であろうと、そこで見ることのできるものは、折り図であったり展開図であったり写真であったりする。しかし、それは干からびた魚でしかない。デジタルであろうとアナログであろうと関係はない。折り紙は、メディアに載ってしまえば、干からびてしまう。干からびた魚を見ているだけでは、遅かれ早かれ行き詰まることになり、そこで渋滞が発生する。渋滞を抜けたいと思ったら、海に潜ればよいのだ。本もコンピュータも捨てて、紙を手に取ればよい。本物の魚はそこにいるのだから。

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二〇〇六年 卯月 十七日 月曜日

トム・ハルさんの新刊

トム・ハルさんの新刊 Project OrigamiA.K. Peters から出ていた。

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二〇〇五年 長月 三日 土曜日

折り紙とマジック・その3

その2から続く。

吉村によれば、マジックは技術や論理トリックを用いながら、不可能を可能にみせる高度な心理ショーだ。すばらしいマジシャンは、手の動きやしゃべりが自然なので、観客はタネの存在に気がつかない。目の前で起きた現象が不可能なはずだと感じられる。不可能なはずのことが実際に起きるので、驚くわけだ。一方、下手なマジシャンは、どこかでぎこちない動きをするので、タネの内容は分からないにせよ、何か変なことをやっているということが分かってしまう。そうすると、目の前で起きている現象も不可能なことではないと思えてしまう。

では、折り紙は何をみせようとしているのか。うまい折り手と下手な折り手の差は何か。

折り紙にも「驚かせる」という要素がある。つまり、「1枚の紙からはさみを使わずにこんな複雑なものが作れるとは信じられない」と驚かせることがある。しかし、その驚きは、決してマジックを超えることがない。というのも、不可能なはずの現象といったところで、はさみを使えば可能であることは明らかであり、はさみを使うというのは珍しいことでもないし、難しいことでもないからだ。一方、マジックの場合、マジシャンが超能力者でもない限り、どのようにして不可能が可能になるのか分からない。そして、超能力者というのは、この世に存在しないのだ。

それならば、折り紙で、人を驚かせるのを目標にするのは、やめた方がよい。折り紙での驚きはマジックの驚きにかなわないのだし、マジックの驚きにしたところで、その1で述べたように、マジックの神髄というわけでもない。人を驚かせるのがうまい折り手だと考えると、折り紙が取るに足らないものになってしまう。

折り紙は、人を感心させるのではなく、人を感動させることを目指さなければならない。

コメント (2件)

最近、池上さんのケプラーの星にマジックの驚きに近い驚きを感じました。「はさみを使っていない」、「表裏同等折り」という情報が例え自分では確認できなくても、前提知識さえあればマジックと同じようなことが起き得るのだと感じました。


私はそもそも、「人を驚かせるのを目的とした折紙作品」というのを見たことがないのですが、そういう方向性もありではないかと感じています。ハイパーカードというペーパークラフトの分野があるように折紙でも不思議な作品ができると非常に楽しめそうです。

タトさん、コメントありがとうございます。

「人を驚かせるのを目的とした折紙作品」というのは、確かに多くないかもしれませんが、「結果的に人が驚くだけで、それで終わってしまう作品」は多いのではないでしょうか。そして、見る人の観点から言えば、どちらも同じことです。

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二〇〇五年 葉月 九日 火曜日

折り紙とマジック・その2

その1から続く

マジックの世界には、マニア相手の商品がある。レクチャービデオやレクチャーノートと呼ばれる技法やトリックそのもののノウハウを販売するものだ。折り紙界でも、折り方を説明したビデオや本が商品化されているが、経済規模という点で、折り紙とマジックはまったく異なっている。

デパートなどのマジック用品売り場に行けば、レクチャービデオや DVD がたくさん並んでいる。それに対し、折り紙のビデオや DVD は圧倒的に少ないし、そもそも折り紙用品売り場というものがほとんど存在しない。折り紙の場合、折り方を伝えるには本よりもビデオの方が適したメディアであり、その点では手品と同じなのだが、なぜ折り紙のビデオがこれほど少ないのか。ビデオを制作・販売するにはコストがかかり、そのコストを回収する見込みがないと考えられているからだ。

マジックのレクチャーノートは、数ページから多くて十数ページで、安くて2千円台、高いと1万円近いというから、折り紙でいえば、たとえば北條さんや神谷さんの作品の折り図が、一作品あたり2千円から5千円で売られているようなものだ。(ちなみに現代音楽の楽譜も大体こんな値段だ。三輪眞弘またりさまの楽譜は2,500円だった。)折り紙では、このような商品はいまだ存在していない。おりがみはうすから似たような商品が発売されているが、これは用紙とセットになっていて、折り図の値段は実質200円だから、比較にならない。仮に折り図だけが2千円で販売されていたとして、あるいは用紙とセットで3千円だったとして、どれだけの人が買うだろうか。

折り紙にはマニア市場が(まだ)存在していない。

その3へ続く

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