二〇〇六年 文月 廿七日 木曜日
折り紙の著作権を再び考える・その6
その5から続く。
続いて、岡本薫著著作権の考え方の第6章。
岡本が言うには、日本の著作権問題
は、大部分が著作権契約問題
だという。つまり、当事者間で契約があれば防げた問題だ。
折り紙の場合、別の問題がある。創作された折り紙作品が著作物であるかどうか、法的にはっきりしていないのだ。創作家が、自分に著作権があるつもりで契約をしても、実は著作権がないとしたら、違法な契約は法的拘束力を持たないから、その契約が無効になりかねない。
しかし、逆に、法的根拠がはっきりしていない今のうちに、創作者と利用者が双方合意の上で契約をし、それに基づく活動をするということを積み重ねてゆけば、いざ法的解釈が必要となったときに、「現行の慣例がこうなっているから」という考慮が多少ともなされるのではないかと、ほのかに期待している。
そう考えると、ガイドラインとは別に、契約の雛形となるべきものが必要になる。文化庁が提供する誰でもできる著作権契約マニュアル
や、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンが提供するライセンスが参考になるだろう。その上で、創作者との契約がないときに利用者が従うべきものとして、ガイドラインが位置づけられる。
利用者の立場から言えば、JASRAC のように著作権を一元的に管理する団体があって、そこに利用料を払いさえすれば折り紙作品が利用できるというようになっていれば、便利だろう。しかし、創作者としては、利用者と契約するか著作権管理団体と契約するかの違いがあるだけで、著作権管理団体があったとしても何かが大きく変わるわけではない。このような団体を作るとすれば、利用者の側が率先して作るほかないが、現実問題として、そのようなことは実現しないだろう。
その7に続く。
二〇〇六年 文月 廿二日 土曜日
折り紙の著作権を再び考える・その5
その4から続く。
続いて、岡本薫著著作権の考え方の第3章。
岡本によれば、著作隣接権の本質は業界保護
だそうだ。現実を見ると、著作隣接権は、政治力の強い業界に付与されている。そう考えると、折り紙業界の政治力はなきに等しいから、折り紙の著作隣接権が法律に明文化されることは、遠い夢なのかもしれない。
しかし、音楽の演奏を考えてみれば、例えば私はプロの歌手ではないが、私が自転車に乗りながら鼻歌を歌えば、それも演奏であって、私に著作隣接権がある。つまり、業界に属していなくとも、著作隣接権を持つことはできる。音楽業界の政治力のおこぼれにあずかっているということなのかもしれないが、そうだとすれば、折り紙がそのおこぼれにあずかってもよかろう。私としては、音楽の演奏者に与えられているものと同じ程度の著作隣接権が、折り紙の制作者にも付与されると考えたい。
さて、音楽などの実演者の場合、著作隣接権によって保護されるのは、演技そのものである。折り紙の場合、パフォーマンスとしての折り紙作品の制作や、折り紙作品の折り方の講習がこれにあてはまるだろう。その結果でき上がった作品については、著作隣接権があると考えることはできないだろうが、創作された作品を翻案した美術の著作物(二次的著作物)と考えることができるだろう。
その6に続く。
コメントを書くには JavaScript が必要です。
二〇〇六年 文月 十七日 月曜日
折り紙の著作権を再び考える・その4
その3から続く。
次に、岡本薫著著作権の考え方の第2章。
無断で「公衆に伝達されない権利」は、実演・上映・放送等に細分化されている。私は、折り紙の制作もここに含まれると考えたいのだが、現行の著作権法では、折り紙の制作についての記述はもちろんないから、その解釈が成り立つ保証がない。とは言え、創作者の権利、制作者の権利、および利用者の権利の均衡を考えると、この解釈がもっとも妥当だろうと考える。折り紙作品の制作が作品の複製にあたるとすると、以前書いたように利用者の権利が実態に合わないほど制限されるのに加え、制作者に著作隣接権が認められないことになる。
そうすると、「公衆への伝達」には、制作した作品を公衆に見せることが含まれるだろう。創作者の立場から言えば、制作した作品の写真を公衆に見せることも含まれると考えたい。自分が創作した作品の写真が営利目的で利用された場合、制作者と写真家に権利があっても、創作者に何の権利もないというのは、納得しがたい。
一方、利用者の立場から言えば、自分で作った作品をお店のショーウィンドウにかざったり、写真をウェブサイトに掲載したりするのは、慣習的に行われていることだから、このようなことは認めたいところだ。喫茶店の店頭でテレビを見せることも、公衆への伝達にあたるが、例外的に認められているので、それと同じように認めることができると考えられるだろう。
その5に続く。
コメントを書くには JavaScript が必要です。
二〇〇六年 文月 十一日 火曜日
折り紙の著作権を再び考える・その3
その2から続く。
続いて、福井健策著著作権とは何かの第3章。
折り紙では、偶然よく似た作品が創作されることがある。その場合でも、後から創作した人が、前に創作された作品を見たことがなければ、仮に折り方が全く同じであっても、複製とはみなされない。両者はそれぞれ独立した著作物となる。
では、前の作品を見たことがあるかないか、いかにして証明するのか。実際、証明のしようはないわけで、仮に裁判で争われることになれば、状況証拠に基づき常識的な判断を下すことになる。
例えば、北條さんの伐折羅大将
は折紙探偵団に掲載されており、私はその雑誌を購読しているから、私が北條さんの伐折羅大将
によく似た作品を創作したら、いくら「この作品は見たことがない」と言い張っても通らない。私が北條さんの作品を見て真似をしたと判断されることになる。
しかし、私自身、子どもの頃に折ったことのある作品や、国内外のどこかのコンベンションで見かけただけの作品など、すべて覚えているわけではない。自分では真似をしたつもりがなくとも、意識下にその記憶があって、無意識のうちに真似をしてしまうかもしれない。そのように、本人に真似をしたという意識がなくても、著作権侵害が成立するという判例が、アメリカにあるそうだ。
それではおちおち創作ができないが、アイディアや作風は真似をしてもよいのだから、多少似ていたとしても、私の伐折羅大将が私の著作物になることもある。同じ題材を、同じアイディアを用い、同じ作風で創作すれば、似たものができるのは当然だ。とは言え、あまりにも似ていれば複製であり、だいぶ似ていれば翻案であるわけで、どこで線を引けばよいかという問題が生じる。
これは理屈では片づけられない大問題で、この本にも裁判になった例がいくつか挙げられているが、人によって意見が分かれるようなものばかりだ。個別の事例に対する議論を積み重ねてゆくほかない。その場合でも、判断の基準となるのは、どのようなルールが折り紙文化活動を盛んにするかということだ。あまりルールがゆるければ、創作家は、せっかく新作を作っても誰かに盗作されてしまうという意識を持つだろう。逆に、あまりルールがきつければ、創作家は、いつ誰から訴えられるか分からないという意識を持つだろう。どちらにしても、創作などやっていられないということになる。その中庸を見定める必要がある。
その4に続く。
コメントを書くには JavaScript が必要です。
二〇〇六年 文月 五日 水曜日
折り紙の著作権を再び考える・その2
その1から続く。
続いて、福井健策著著作権とは何かの第2章。
一口に著作権と言っても、様々な権利がある。制作された折り紙作品が美術の著作物であり、折り図が図形の著作物であるということは、おそらく間違いのないところだから、ここでは、創作された折り紙作品が著作物だという仮定の上で、それぞれの権利について考えたい。
複製権は、著作物の複製をコントロールできる権利だ。創作された折り紙作品については、複製とは、具体的な作品(例えば北條さんの伐折羅大将
)を真似した作品を、自分の創作作品として公表するということになるだろう。
上演権・演奏権・上映権は、折り紙の場合、公衆を対象に作品を折ることをコントロールできる権利だと考えることができる。つまり、創作者は、折り上がった作品または折っている過程を、不特定または多数に直接見せることを、コントロールできるという意味だ。こう考えれば、作品を折ること自体には著作権は及ばない。
公衆送信権・送信可能化権は、放送やインターネットでの使用をコントロールできる権利だ。これについては様々な問題があるが、今は置く。
翻訳権・翻案権には、作品のアレンジをコントロールする権利や、折り図を描くことをコントロールする権利などが含まれるだろう。逆に、折り紙以外の著作物を基にして折り紙作品を創作すると、翻案権を侵害する場合がある。
「コントロールできる」と書いたのは、これらを禁止することもできるし、一定の条件で許可することもできるという意味だ。逆に、もしも著作権がないなら、例えばクリエイティブ・コモンズのライセンスを適用したいと思っても、そのライセンスは無効だ。
その3に続く。
コメントを書くには JavaScript が必要です。

コメントを書くには JavaScript が必要です。