blog.鶯梭庵

二〇〇六年 文月 十一日 火曜日

折り紙の著作権を再び考える・その3

その2から続く。

続いて、福井健策著著作権とは何かの第3章。

折り紙では、偶然よく似た作品が創作されることがある。その場合でも、後から創作した人が、前に創作された作品を見たことがなければ、仮に折り方が全く同じであっても、複製とはみなされない。両者はそれぞれ独立した著作物となる。

では、前の作品を見たことがあるかないか、いかにして証明するのか。実際、証明のしようはないわけで、仮に裁判で争われることになれば、状況証拠に基づき常識的な判断を下すことになる。

例えば、北條さんの伐折羅大将折紙探偵団に掲載されており、私はその雑誌を購読しているから、私が北條さんの伐折羅大将によく似た作品を創作したら、いくら「この作品は見たことがない」と言い張っても通らない。私が北條さんの作品を見て真似をしたと判断されることになる。

しかし、私自身、子どもの頃に折ったことのある作品や、国内外のどこかのコンベンションで見かけただけの作品など、すべて覚えているわけではない。自分では真似をしたつもりがなくとも、意識下にその記憶があって、無意識のうちに真似をしてしまうかもしれない。そのように、本人に真似をしたという意識がなくても、著作権侵害が成立するという判例が、アメリカにあるそうだ。

それではおちおち創作ができないが、アイディアや作風は真似をしてもよいのだから、多少似ていたとしても、私の伐折羅大将が私の著作物になることもある。同じ題材を、同じアイディアを用い、同じ作風で創作すれば、似たものができるのは当然だ。とは言え、あまりにも似ていれば複製であり、だいぶ似ていれば翻案であるわけで、どこで線を引けばよいかという問題が生じる。

これは理屈では片づけられない大問題で、この本にも裁判になった例がいくつか挙げられているが、人によって意見が分かれるようなものばかりだ。個別の事例に対する議論を積み重ねてゆくほかない。その場合でも、判断の基準となるのは、どのようなルールが折り紙文化活動を盛んにするかということだ。あまりルールがゆるければ、創作家は、せっかく新作を作っても誰かに盗作されてしまうという意識を持つだろう。逆に、あまりルールがきつければ、創作家は、いつ誰から訴えられるか分からないという意識を持つだろう。どちらにしても、創作などやっていられないということになる。その中庸を見定める必要がある。

その4に続く。

コメントを書くには JavaScript が必要です。