二〇〇四年 神無月 九日 土曜日
続々・北條さんの暫について
遅ればせながら、宮島さんの記事に対する返答。
北條さんの暫が、現代コンプレックス折り紙の最高到達点
の1つであることは、その通りだと思うが、私は、現代コンプレックス折り紙なるものが折り紙の到達点であるとは考えていない。むしろ、そこが出発点で、そこから先が折り紙の問題だろうと考えている。創作技術は、そこから先へ進むための手段であって、折り紙の一部分にすぎない。
折り紙らしい折り紙とは、一言でいえば、技法として折り紙を選んだことに必然性があるものということになるだろう。ある技法を選択したときに、その技法特有のデフォルメがされるというのは当然のことで、問題は、その技法を選んだことに必然性があるかどうかということなのである。
その点については、私の考えと北條さんの考えはあまり異なってはいないだろうと理解している。北條さんの「空間折り紙」は、まさに紙を折ることによってはじめて実現される空間表現だから、折り紙で作ることに必然性がある。それを純粋な形で具現化したものがさかなのオブジェの作品群である。
暫については、優れた彫刻がすでにあるのだから、それを単に折り紙で再生産するだけでは、車輪を再発明することにしかならない。暫を折り紙で折ることが、折り紙にとって意味があることは当然であるが、折り紙にとっての意味は折り紙人の集団という狭い世界でしか通用しない。私が問題にしているのは、暫を折り紙で折ることが、世界にとってどんな意味があるのかということなのだ。
だから私は、暫やガブリエルよりも、さかなのオブジェの方を高く評価する。さかなのオブジェは、折り紙でなければ見ることのできなかった世界を見せてくれているから。

コメント (3件)
タトさんのコメント:
羽鳥さんの議論を見ていると暫はマニア受けするがさかなのオブジェは一般受けするものなのでこちらのほうが良いと言っているようにも見えます。でも現状としては暫が一般受けし、さかなのオブジェはマニア受けするという事態が本当のところだと思います。
これはどのように解釈されますか?
おそらく羽鳥さんにとっての「世界にとって意味のあること」というのが一般受けするというのは別物なのだと思っています。でもそれでしたら「狭い世界でしか通用しない」というのは的を外している感があります。
羽鳥さんのコメント:
タトさん、コメントありがとうございます。
暫が一般受けするというのは、ハリウッド映画が一般受けするのと同じことでしょう。もちろん、よいところがあるから受けるのですが、一時的な興味の対象として受けている部分が大きいと思います。
ハリウッド映画よりよい映画はたくさんあります。よい映画というのは、強い力を持っています。それは、誰でも見ただけでわかるというものではないので、一般受けはしないのですが、では狭い世界でしか通用しないマニア向けのものかといえば、それは違うと思います。映画の力を体験する可能性は誰にでも開かれていますし、誰でも、ひとたびその力を体験すれば、ハリウッド映画が物足りなくなるのです。
タトさんのコメント:
羽鳥さんのスタンスは分かりました。レスありがとうございます。
私はさかなのオブジェは空間表現的な価値に加え折り紙技術的な要素に着目しています。ここ数十年の折り紙の発展を支えてきたのは技術的進歩だと考えていますので…。
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